日本の味 醤油の歴史

日本人にとって書かせないものとして「醤油」がある。料理の「さしすせそ」としても「せうゆ」として「醤油」が挙げられる。日本における「醤油」の歴史は深く、日本でも広く扱われているだけではなく、海外でも英語で「ソイ・ソース(soy sauce)」として愛されている。
「歴史は深い」と書いたのだが、そもそもの歴史はどのようなものなのか、本書は醤油そのものの歴史から、関東・関西・九州それぞれの地方の醤油の歴史・醸造について取り上げている。

<国際的商品となった日本醤油>
昨年の11月の時に、日本食である「和食」が「無形文化遺産」に登録された。登録されたプロセスの中で密かに議論になっていたのが、「そもそもどこからが和食で、どこからがそうでないのか」というのがある。
これについては「日本食」や「和食」関するほんで議論する内容なのであえて割愛する。しかし「和食」として欠かせないものに「醤油」があることは、忘れてはならない。
そもそも醤油ができたのは諸説あるが、本書ではすでに奈良時代にできあがっていた、当時中国大陸における「唐」の時代から伝来し、「醤(ひしお)」の調味料からが始まりとされている。
さて、本章の内容である。元々中国大陸から伝わってきた「醤」はやがて「醤油」となり、日本独特の醸造方法が編み出された。それが海外に渡ったのは、江戸時代において、中国大陸・東南アジアなど各地に輸出し、使われていた。他にもヨーロッパ大陸ではポルトガルやオランダの人々によって伝わったものもある。
やがて時代は進むにつれ、世界的に醤油の輸出を広げ、さらに海外で醤油の醸造工場が建てられるようになった。

<関西地方の醤油醸造>
さて、醤油は関東・関西・九州とで作り方は異なる。そもそも多く使われる醤油も関東では「濃口醤油」、関西では「薄口醤油(淡口醤油)」とで分かれる。もちろん「醸造方法」も関東・関西・九州で異なる。
まずは関西であるが、関西における醤油醸造の源流として「湯浅醤油」が挙げられている。「湯浅醤油」は戦国時代に紀伊半島において作られた醤油のことであり、それが、関西を中心に広がりを見せた。その記録は「やませ(八の下にせと書く)印醤油沿革誌」が取り上げられているが、後に有名な醤油メーカー「ヤマサ醤油」の原点になった。他にも関西醤油として姫路で作られた「龍野醤油」などが挙げられる。

<関東地方の醤油醸造>
本章の冒頭で「ヤマサ醤油」について言及しているが、関西地方の方法で「湯浅醤油」から来たといわれているが、それが銚子にまで伝えられ「ヤマサ醤油」になっていった。
他にも関東生まれ・育ちの醤油も存在する。ヤマサと同じく銚子で生まれ育った「ヒゲタ醤油」である。千葉を中心に醤油の歴史はつくられ、江戸時代以降、関東地方の醤油文化を「ヤマサ醤油」「ヒゲタ醤油」、あと千葉の野田で作られた「野田醤油」との三つ巴の様相を見せていた。「野田醤油」は後に「キッコーマン」となる。
関東における醤油の醸造は銚子・野田など千葉が最大なのだが、千葉だけが醸造していたわけではない。江戸にある「江戸崎町」にも醤油の醸造工場が存在した。

<北部九州の醤油>
今となっては全国各地で生産しているのだが、そのほとんどは「地産地消」を行っている。それは地域ごとに味が異なるため、地域にあったような味に対応して醸造していることにある。先ほど「濃口醤油」「薄口醤油」の違いについて語ったが、他にも「溜(たまり)醤油」や「白醤油」「甘露醤油」「魚醤」など様々な醤油がある。
では、博多や小倉をはじめとした九州地方北部はどのような醤油なのかというと「再仕込醤油」とよばれるものであり、別名では前述の「甘露醤油」とも言われている。
元々幕末の頃から「博多醤油」として愛されていたが、これが「再仕込醤油」であった。

和食の中でも欠かせないものであり、洋食でも使われることのある、日本人としてかけがえのない調味料の一つである「醤油」、醤油は地方によって味が異なるばかりではなく、歴史も、醸造方法もそれぞれ異なる。本書は醤油の塩辛さ、というよりもむしろ「深さ」の「広さ」を知ることができる一冊である。