さみしさサヨナラ会議

「さみしさ」と言う言葉は結構よく聞くのだが、心理的にどのようなものなのか、言葉で説明するのは難しい。唯一説明できるところとして辞書にある意味でしかなく、

「1.あるはずのもの、あってほしいものが欠けていて、満たされない気持ちだ。物足りない。
 2.人恋しく物悲しい。孤独で心細い。
 3.人けがなくひっそりしている。心細いほど静かだ。」「大辞林 第三版」の「寂しい」より)

とある。本来は「寂しい」という意味であるが、さみしいと読み取れるため、このような形となったが、一人でいることを苦にしている感情を表している。しかしその孤独はいったいどうして形成されているのか、そしてそれは現代病なのか、さらにはそれが必要なのだろうか、それらについて考察を行っている。

第一章「孤独ってそもそもなんだ?」
「孤独」というと「独りぼっち」というようなイメージを持ってしまう。しかし、本当の意味で「孤独」と言えるかというと首を傾げてしまう。例えば独りぼっちになっていても、一人でも大丈夫なもの・ことがあれば、さみしさは存在しないし、そもそも独りぼっちでいながら「孤独」と言う言葉も当てはまらない。
そう考えると「孤独」とはいったい何なのだろうか。それを宮崎氏の生い立ちからコミュニケーションの深淵、さらには「愛」の定義に至るまで様々な角度から考察を行っている。

第二章「さみしいのって現代病ですか?」
本章のタイトルを示すように本当に「さみしさ」は現代病なのか。その原因となるのは「孤独を癒すビジネス」があったり、孤独を癒すためにTwitterやFacebookなどネット上の「つながり」を求めている人も多い。そう考えると「現代病」のようなイメージを持ってしまっているのだが、そもそも宗教の観点から「さみしい」というのは歴史的に現代の方が多いのか、あるいは昔から多いのかそのことについて迫っている。

第三章「さみしさって必要なんですか?」
「さみしさ」はネガティブな感情を持つのだが、実際に「つながり」への渇望が際限なく広がっており、「愛」への渇望も広がってきており「足るを知る」というものが欠如しているように思えてならない。しかし「足るを知る」を知ることによってストレスと同じように「さみしさ」もある程度持っている方が、「節制」にもなり、何と言っても自分と他人とのバランスを測ることができる。

本書で対談している小池氏は住職を務めており、宮崎氏も評論家であるが、評論の中核の一つに仏教論を持っている、もっとも宮崎氏は「仏教者」と自称しているほどである。そう言う意味では「哲学」と言う側面を見せている一方で、「さみしさ」の定義や問題点を「仏教」の観点から見ているようだった。