東郷平八郎

日本の歴史の中で戦争を語る機会はけっこう多いのだが、中でも日本における栄光の歴史を語る上で欠かせないものとして1904年~1905年に起こった日露戦争が挙げられる。当初は勝利する見込みがほとんどなかった日本が大国であるロシアに勝利し、欧米列強に匹敵するほどの力を持つ国であることを知らしめた戦争として知られている。中でも有名なものとして世界屈指の海軍を誇るロシアに勝利を飾った「日本海海戦」が挙げられるが、その海戦の陣頭指揮を執ったのが、後の元帥海軍大将となり、死後「軍神」として崇められた、海軍大将・東郷平八郎の存在である。東郷は現在でもなお、最も有名な軍人としてあげられ、国内外の軍人に尊敬の対象とされているという。

その東郷平八郎の生涯はいったいどのようなものだったのか、本書は日露戦争も含めた東郷の生涯についてフォーカスを当てる。

第一章「だれが東郷を有名にしたか」
東郷平八郎に関する文献は自伝と言うよりも「評伝」の形で戦前から数多くの本が出版されており、その数は50冊を超える。一番古いものでも、日露戦争以前の明治30年(1897年)のものが存在するほどである。東郷が存命の頃から評伝として世に送り出されており、その名を日本中に知らしめることになったと言える。

第二章「日露戦争以前の東郷」
東郷平八郎は薩摩藩士の息子として生まれた。軍人としての初陣は幕末の「薩英戦争」であり、その後、戊辰戦争も経験した。そして明治時代になるとイギリスに留学し、海軍予備校にて海軍のイロハを学んだ。その後帰国し、日清戦争にて陣頭指揮を執った。後に要職を転々としていった。

第三章「東郷がつくった日露戦争のシナリオ」
東郷平八郎を最も有名にしたのは最初にも書いたとおり、日露戦争における日本海海戦である。この海戦により、形成は大きく日本に傾き、日露戦争勝利の引き金にもなった。元々ロシア帝国海軍は日本の倍以上の戦艦の数を誇っており、世界一とも言われるほどの強さを誇っていた。しかし、陣頭指揮を執った東郷を始め、秋山真之や佐藤鉄太郎と言った参謀たちが敵前大回頭や同航砲撃戦など様々な作戦をもってロシア帝国海軍を攪乱し、「完勝」に限りなく近いほどの勝利を得たと言われている。本章では、統計的な観点など、少しテクニカルな観点から日本海海戦について考察を行っている。

第四章「昭和天皇の教育係」
日露戦争終結後も東郷平八郎は要職についてが、やがて東宮御学問所総裁に就任し、昭和天皇の教育係になった。教育係となったのは他にも学習院院長を歴任した陸軍大将・乃木希典もいる。昭和天皇と東郷平八郎、乃木希典にまつわるエピソードはいくつかあり、本章でもそれについて言及している。

第五章「混乱の時代」
東郷平八郎が昭和天皇の教育係として勤しんでいたときに世界は第一次世界大戦を迎えていた。教育係として勤しんでいたにもかかわらず東郷を利用して軍政に干渉する人がいたため、軍政による影響力は少なくなかったと言われている。その証拠となったのが昭和5年(1930)年に行われたロンドン海軍軍縮会議であるが、その軍縮会議の中でできた条約に反対の意向を見せた。

第六章「東郷の神格化と死」
なぜ東郷平八郎は「軍神」とされたのか、その理由として諸説あるのだが、実際には東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に東郷神社が建立され、神として祀られた事実が存在する。

東郷平八郎の歴史は戦争に始まり戦争に終わったと言われているが、それでもなお日本海海戦の勝利をはじめとした数多くの武功により、未だに日本人の記憶の中に残りつつけている。それだけでは無く、本書の様な評伝も数多く遺されており、今後もまた新しい形の東郷平八郎の評伝が出てくることだろう。