混浴と日本史

「混浴」というと、人によってはいかがわしいイメージを持たれる人もいるようだが、日本では古くから根付いている文化であり、日本に限らずドイツや北欧・東欧諸国でも同じような文化が存在する。「混浴」と言うと男女が裸の付き合いになる、と言うイメージが持たれるようだが、西欧諸国などで栄えている「スパ」の文化では水着着用が義務づけられているため、混浴と言っても様々である。
しかし本書は日本で根付いた男女が裸になって一緒に温泉につかる文化の「混浴」を指しており、その歴史について取り上げた一冊である。

第一章「混浴、歌垣と禊ぎ」
混浴の起源を遡っていると、本書では奈良時代にまで遡っている。史料としては「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」にまで遡る(別名として「常陸風土記」と言われているが、こちらは茨城県鹿嶋市の銘菓である)。721年に成立したものであるが、そこに混浴に関する文章が存在しているのだという。他にも「出雲国風土記(いずものくにふどき)」なども取り上げられている。

第二章「国家仏教と廃都の混浴」
ここでは奈良時代の後期、仏教が国家の宗教として浸透し始めた頃の風呂、あるいは混浴の歴史について紐解いている。当時の風呂は「沐浴」と呼ばれており、「清め」の一種であった。他にも「沐浴」と言う表現の他に「湯浴み(ゆあみ)」と表現も用いられている

第三章「平安期、風呂と温泉の発展期」
平安時代に入ると「湯殿(ゆどの:入浴するためにこしらえた部屋・浴室)」や「町湯」もできはじめた。湯殿は主に天皇が住む内裏の中に「御湯殿」と言うのが設けられている史料が存在していることから、貴族や皇族にて親しまれた場所と見て取れる。他にも「町湯」も紹介されているが、公衆浴場の原型として用いられることがあるという。

第四章「湯女の誕生と一万人混浴」
「湯女」は「ゆな」と呼ばれ、鎌倉幕府が成立した前年に、現在の有馬温泉にてスタートしたサービスガールの通称である。後の遊郭の先駆け的存在である。他にも同時期に「千人混浴」や「一万人混浴」など数多くの人々が混浴を行う風習が存在したという。

第五章「江戸の湯屋と地方の温泉」
ここで一気に時代を江戸時代に移している。江戸時代は「町人文化」と呼ばれていて、庶民たちにも風呂の文化が栄えた。当時では「銭湯」「湯」と呼ばれており、落語にもそういった「湯」のシーンが出てくる。しかし本書はあくまで「混浴」を取り上げているので混浴にフォーカスを当ててみると、湯女風呂は鎌倉時代から江戸時代まで栄えていたのが、江戸時代の中期に当たる、1680年代には一斉に検挙され、吉原に送り込まれる事が起こったことで、湯女文化というのは無くなっていった。その後「混浴禁止令」が1790年代に発令され、銭湯でも混浴が許されなかった。それまでは「入り込み湯」と呼ばれる混浴文化が存在したと言うが、その場でまぐわっていた人々もいたのだという。

第六章「日本の近代化と混浴事情」
とはいえ混浴は完全に廃れたわけではなく、少なからず根付いていた。その証拠に1853年ペリー率いる四隻の黒船が来航したときにの事を記録した「ペリー艦隊日本遠征記」と言うのがある。その一文に、

「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」

というのがある。西欧諸国ではこの文化をみだらなものだととらえられていた。やがて明治維新を迎え、再び「混浴禁止令」が発令されるなど紆余曲折はあったものの、混浴文化は今もなお根付いている。

混浴の歴史を振り返ってみると、1300年ほどあるのには驚いている。しかし最古の史料として奈良時代のものがあるとしたら、風土記はその土地の歴史や風土を記録していたものを考えると混浴そのものはもっと古い時代からあったとも推測できる。ともあれ、淫猥に思えたとしても長らく日本に定着した「文化」の一つと言っても過言ではない。