闘え、生きろ、老いるな!~夫・力道山の教え

最近プロレスラーの本がでている。今一番波に乗っている選手もいれば、昨年引退した選手、さらにはレジェンドと呼ばれるような選手などが続々と出版されており、それぞれ面白味がある。
さて、本書の話に移るのだが、本書は日本におけるプロレスの父と言える存在である力道山がどのような歴史を遺し、教えを遺していったのか、そのことについて力道山の妻の立場から綴っている。

第1章「3本の指に秘められた真実と死の真相」
力道山が亡くなったのは1963年、ちょうど同じ年にアメリカのジョン・F・ケネディがパレード中に凶弾で倒れてしまった。力道山も第5章にて詳しく述べるのだが、同じ年に刺殺事件で返らぬ人となった。ケネディ暗殺から力道山自身死去までの経緯について事細かに記載されている。最も力道山がケネディ暗殺の報せを聞いたときの話は本書以外に詳しい文献はないと言える。

第2章「過去よりも10年後、20年後の日本の行く末を心配して」
力道山は2つの祖国を持っていた。一つは言うまでも無く日本。もう一つは朝鮮半島、当時は日本統治下にあったときのことである。それ故に戸籍も日本と朝鮮半島のもの2つを持っている。「力道山」という名は元々力士になった時に名づけられた名前である。その力士になるきっかけも朝鮮相撲と呼ばれる競技で無敵の強さを誇り、そこからさらなる高みを目指したいという事から二所ノ関部屋(元関脇・玉ノ海が親方の時代)に入門した。

第3章「一夜にして“シンデレラガール”といわれてー出会いから婚約、結婚、新婚旅行へ」
著者と力道山との出会いは、著者が元々日本航空のCAをしていた時代だった。プロレスラーになり、海外に遠征に行く、あるいは修行のために行くことがあったのだが、当時は写真からお見合いとなり、それから付き合うようになったと言う。ちなみに理由は力道山の一目惚れだったという。

第4章「謎の結婚生活とその素顔」
その後婚約を経て結婚し、夫婦になったのだが、著者曰く「毎日が闘い」だったという。元々力道山は気性が激しく、弟子によっては今でこそ「体罰」や「暴力事件」とも呼ばれる様な指導をしてきたことでも知られている。しかしそういった気性の激しい素振りは夫婦生活の中では子どもの教育をめぐって1回しかなく、むしろ繊細な方だったという。

第5章「突然の死で天国から地獄へープロレスランドの建設を夢みてー」
力道山は1963年の12月に東京・赤坂にあるナイトクラブ「ニューラテンクォーター」にて暴力団の人といざこざを起こし、ナイフで腹部を刺された。その後入院し、1週間後帰らぬ人となった。この赤坂こそ、力道山が理想とした夢を築く舞台となったのだという。それが本章のサブタイトルにある「プロレスランド」である。力士・プロレスラーとしての顔はメディアでも良く出ていたのだが、実業家としての力道山を見るのは本章が初めてである。

第6章「日朝の「影の外務大臣」の命を受けた力道山の願い―38度線での叫びとその真相―」
力道山のトレードマークといえば「空手チョップ」である。言わば「袈裟斬り」と呼ばれる技の一つであるが、「空手チョップ」で様々な選手を倒す姿はメディアを通じて国民的英雄までのし上がったと言われている。この「空手チョップ」に込められた意味、それには第2章に込められていた思いと分断された怒りがあったという。2つの祖国があるからでこそ、両国の架け橋になりたい、それは「影の外務大臣」と言われる所以だった。

第7章「力道山の遺言」
力道山は形のあるものとないものの2つを遺している。形のあるものはジャイアント馬場・アントニオ猪木をはじめとした力道山の愛弟子たち、そしてもう一つは息子・孫であるが、息子は共にプロレスラーの百田光雄・百田義浩がいる(光雄氏は現在でも現役である)。孫には百田力がおり、昨年末「力」というリングネームでプロレスラーデビューを飾った。形のあるものは現在もプロレスの歴史を紡いでおり、後者の「形のないもの」はプロレスラー魂もさることながら、日本と朝鮮半島の架け橋になる思いがプロレスラーの枠を超えて力道山にかわいがられた方々の心に深く刻まれている。

日本プロレス界の父である力道山は亡くなられてから50年経った今でも、私たちの心に生き続けていると言っても過言ではない。力道山に込められた思いと輝きは本書を通じてもまだ、燦然と残っている。

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