松井石根と南京事件の真実

今年で終戦を迎えて69年経つのだが、未だに大東亜戦争をはじめとした第二次世界大戦の総括が続いている状況にある。その戦争を利用して、他国からカネを貪ろうとする所もあれば、謝罪を求めて、謝罪を行っても何度もやらせたがるような所もある。

大東亜戦争を通じて戦犯に指定された人物は数多くおり、A級・BC級併せて処刑された人は約1,500人に及ぶ。その中でもA級戦犯で処刑された人には東条英機や広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章がいる。そして他のA級戦犯とともに絞首台に立たされた人物として本書で取り上げる松井石根がいる。なぜこのような表現をしたのかというと、もともとA級戦犯として起訴されたものの、A級戦犯では無罪となったが、B級戦犯として絞首刑に処されたという経緯があるためである。松井石根が絞首刑となる最大の要因として「南京事件」が挙げられるのだが、南京事件における検証はまだまだ議論の余地が存在する。松井石根が絞首刑となったのは南京事件だが、もともと「日中友好論者」の筆頭格だった(日中友好のための「興亜観音」を建立する構想も持っていたほど)。本書は松井石根と南京事件の真実について取り上げている。

第一章「日中友好論者への道」
なぜ松井は「日中友好論者」になったのか、その原因の一つとして参謀本部の先輩であり、師として仰いでいた宇都宮太郎の存在だった。松井は陸軍大学卒業後すぐに参謀本部へと配属され、フランス派遣を経て、当時「清王朝」だった中国大陸へと派遣された。その時に宇都宮と行動を共にし、革命家の孫文や蒋介石とも親交を深めた。

第二章「大亜細亜協会の台頭」
孫文の思想の一つとして「大亜細亜主義」があった。その主義をくみ取るべく、1933年に「大亜細亜協会」を発足させた。設立時のメンバーには、近衛文麿の他に、後に同じくA級戦犯となる広田弘毅、荒木貞夫、鈴木貞一がいた。

第三章「上海戦」
日中友好に向けて着々と動き出していたつかの間、当時の中華民国との日中戦争(支那事変)が勃発した。1937年の話である。この戦争の中で7月28日、通州に住んでいた日本、及び朝鮮の居留民ら233人が虐殺された「通州事件」が発生した。それが引き金となり戦争は激化の一途を辿っていった。

第四章「南京戦」
やがて戦争は中国全土へと広がり、日中戦争が始まった同じ年に南京への攻略を進めた。当初松井は12月に行おうと考えていたのだが、軍が松井の指揮を無視して進軍し、松井は追認する形となった。12月13日に南京は陥落した。

第五章「占領後の南京」
同月17日に松井が南京に入場し、日本が占領する形となったのだが、その中で大量の捕虜を出した。その捕虜に対する扱いについて厳しい訓示を示したものの、一部の兵士がそれを無視し、中国人捕虜への略奪や暴行が起こった。それについて松井は心を傷め、

「自分は此の南京に幾度か訪問したことがある。其れは自分が三十数年来念願し続けて来た中日両国の平和な姿を実現せんが為であつた。然るに其の南京に今回自分は夢にさへ考へなかつた最も悲しむべき結果を齎(もた)らしたのである」(p.183、及び「極東国際軍事裁判速記録」より)

と言った。その後予備役に移ったのは1938年のことである。

第六章「興亜観音」
第五章で述べた事件を弔うために静岡県の伊豆に「興亜観音」を建立した。建立のためのお金は全て松井の私財を投じている。建立後、松井は観音の近くに庵を作り、毎日観音の方角に向けて観音経を唱えていたという。

第七章「東京裁判」
やがて大東亜戦争が起こり、終戦し、松井はA級戦犯として逮捕・起訴された。後に東京裁判では南京の虐殺行為の嫌疑をかけられたが、南京での略奪・殺人に関しては認めているものの、組織的な虐殺行為に関しては一貫して否定していた。しかし判決はA級戦犯(平和に対する罪)としては無罪だったものの、B級戦犯(通例の戦争犯罪)については死刑判決を言い渡され、12月23日、東条英機らとともに、刑場の露となった。

南京事件と松井石根の関連について取り上げられている本は数多くある。もっと言うと南京事件も組織的な虐殺があったかどうか、あったとしてどれくらいの規模か、という議論は南京占拠が行われて75年経った今でも議論が続いている状態にある。その状況を亡くなった松井石根はどう見ているのか、定かでは無い。