危機の指導者 チャーチル

イギリスの名宰相というと歴史を紐解くと何人かいるのだが、第二次世界大戦前後だとウィンストン・チャーチル以外考えられない。特に「戦争」という危機の時代に強いリーダーシップを発揮し、イギリスを窮地から救った。本書はそのチャーチルの生涯をもとに、日本人が持つべき指導者のあり方を示している。

第一章「生き急ぐ若者」
ウィンストン・チャーチルがこの世に生を受けたのは1875年の時である。父親もまた英国の政界を担ったランドルフ・チャーチルであり、19世紀後半に日本で言う大蔵大臣に最年少で抜擢された。それから栄光の時代となったのだが、ランドルフはわずか45歳で早世してしまった。
その姿を見た息子は影響を受けて、政治家への夢も芽生えたが、そもそも子供の頃からの軍隊へのあこがれがあって、先に軍人へとなった。若い頃から軍功を求めることが強く、本章のタイトルのように「生き急ぐ」姿があった。

第二章「はしごと行列―チャーチルの政治観」
チャーチルの政治観は「保守主義者」と呼ばれており、世間一般でも広がりを見せているのだが、実際にはどのような政治思想を持っているのか。そのことについて体制や国民福祉などを機軸に考察を行っている。

第三章「パグ犬と子猫ちゃんーチャーチルの夫婦愛」
タイトルにある動物二匹は、前者はチャーチルが描くサイン、後者はチャーチルの妻であるクレメンティーンが描くサインの動物であり、かつ家族で言われるそれぞれ愛称である。そう呼ばれているほど、家族愛がむつまじく、時折距離を置くことはあったのだが、夫婦仲や家族中が嫌悪することはなかったという。

第四章「ダーダネルスの亡霊―軍事戦略家としてのチャーチル」
チャーチルは元軍人であるせいか軍事戦略も長けていたのかというと、世間ではそういう評価を刷る人は少なくないのだが、一部酷評している人が側近にもおり、論者もいる。なぜ酷評されているのかというと、本章で中心に取り上げられている「ダーダネルス作戦(ガリポリの戦い、またはチャナッカレの戦い)」がある。「ダーダネルス作戦」とは第一次世界大戦中に起こった戦いの一つでイギリス・フランス等の連合国と、オスマン帝国・ドイツ帝国の同盟国軍がエーゲ海からマルナラ海への入口に当たるダーダネルス海峡を部隊にした戦いだったのだが、同盟国側の勝利に終わり、連合国側が撤退することになった。ちなみにこの作戦を立案したのは、当時の海軍大臣であったウィンストン・チャーチルだったが、この失敗により失脚となってしまった。そのため本章にある「亡霊」というのは、軍事戦略家としての負の側面を取り上げていることにある。

第五章「迫り来る嵐―チャーチルの歴史」

「ウィンストン・チャーチルは、歴史に名を残しただけでなく、歴史の創造者でもあった」(p.156より)

それを裏付けたのがある審議の弁舌に対して1953年にノーベル文学賞となった。歴史に名を残した名宰相としての事実もあるのだが、実際に自分の怒ったことが歴史の中で語り継がれるということを見越して、「歴史をつくる」ことについても認知した為なのかも知れない。

第六章「1940年5月―運命の月」
ウィンストン・チャーチルが首相に就任したのは本章のタイトルにあるとおり1940年5月のことである。なぜなのかというと、この月の7日~8日にかけて「ノルウェー討議」が行われ、前の政権だったネヴィル・チェンバレン政権が倒れ、チャーチルが後継の首相に任命されたのである。

第七章「「即日実行」(Action This Day)―戦争指導者チャーチル」
第二次世界大戦中に首相に就任したと同時に、チャーチルは「戦争指導者」という名が付けられた。戦争指導者としての大きな特徴としてはタイトルにあるとおり「即日実行」だった。権力を首相に集中していたため、軍事的な指揮についても決断力をもって決め、実行に移すことができたと言える。

ウィンストン・チャーチルの評価は逝去してから約50年経った今でも定まっていない。かつては「名宰相」として名を連ねたのだが、今となっては公文書が次々と公開されたことによって変わりつつある。もっとも名宰相と言ってもすべてが良かったわけではないし、愚策だったものもある。それはどの宰相にも言えることである。とはいえチャーチルの踏んだ轍は日本人にとっても学ぶべき要素はある。