「あいつらは自分たちとは違う」という病~不毛な「世代論」からの脱却

「あなたとは違うんです」

確か数年前に首相になった人が首相を辞任した時に言った言葉である。この言葉は本書で言う「世代論」とは異なるのだが、世代について差別する際に数年前に首相だった人の発言をそのまま言う人も少なくない。世代論というと先の言葉以外にも「近頃の若い者は…」という言葉、いわゆる「俗流若者論」と呼ばれるものも良く聞く。こういった議論について著者は「不毛」と切り捨てている。その理由は元々語られるべき世代論についての視点を失わせただけでは無く、社会に対する視点も失わせてしまったことを指摘している。

本書はそれらを乗り越えて「世代論」はどのようにして語るべきか、その形成の経緯と問題点の本質について考察を行っている。

第1章「好き勝手に論じられる「子供」「若者」」
「若者論」と同じような形で語られるのだが、論客の中には「戦後民主主義の~」という風に、日本を崩壊させた民主主義の象徴として語られたのが1990年代である。しかし2000年代に入ると、「ゲーム脳」「ネトゲ脳」などニセ科学と呼ばれる見地から若者の異常を糾弾している。他にも「ゆとり教育の弊害」として語られることも多く、何かにかこつけて「若者」や「子供」を好き勝手に論じられる。

第2章「あいつらは自分たちとは違う」
世代の名称を「団塊世代」を作られたことも筆頭に、「新人類世代」「バブル世代」「団塊ジュニア世代」「プレッシャー世代」「ゆとり世代」など様々な「世代」が作られた。全て「見世物小屋」の如く、団塊世代をはじめとした異なる世代が、さらし者にして論じるに便利なようにして名づけた。それで本章、及び本書のタイトルの如く切り捨てる。

第3章「世代の鎖」
「世代」を論じるためには「ジェネレーション・ギャップ」など世代における「壁」や「鎖」などをもとに論じられる。「世代論」そのものの議論はいったいどのような歴史を辿っていったのか、本章では1960年代以降の「世代論」について社会的背景を絡めて取り上げている。

第4章「消費社会とメディアの鎖」
「世代論」を語る一つの要素として「消費」が挙げられる。高度経済成長にともない、消費も供給も活発化したのが段階であったり、バブル世代と呼ばれたりする様な世代であった。その絶頂期になったのが、高度経済成長が終わった後に来た「バブル景気」である。その後バブル崩壊と伴い、消費の傾向も変容していった。

第5章「ポストモダンと劣化言説の鎖」
知識人と呼ばれる方々の劣化も著者は指摘している。そのきっかけとなったのが「ブルセラ論争」や若手論客の台頭があった。「若手論客」の中でも特に話題となったのがサブカルチャーである。そのきっかけが宮崎勤事件と呼ばれるものがある。この時代に「おたく(オタク)」と言う言葉が使われ始め、当時の若手論客を中心に議論を巻き起こした。

第6章「アイデンティティの鎖」
2000年代の若者バッシングは、第1章でも述べたような「ゲーム脳」や「ゆとり教育」の他にも「格差」「下流」「貧困」「ニート」など経済的にネガティブな用語でまとめられる様な事が多い。そういった議論は論客もさることながら、メディアで何度も取り上げられている。

第7章「「新しい世代」と呼ばれたいですか?」
「若者論」について、本書もさることながら2010年代に入ってくると、私に近い世代の論客が現われ、著書を出し、若者論を語るようになった。代表格で言えば古市憲寿が挙げられる。

第8章「若者論に「社会」を取り戻す」
若者論を語る中で「デフレ」や「不況」、「就職難」などが取り上げられるのだが、これらは決して若者のせいとは言い難い。社会全体によって形成された産物であり、前述の状況の中で若者たちはどのように生き抜くのか、と言うことを提示、あるいは論ずる必要があるのでは無いかというのが本章である。

「若者論」自体、不毛そのもののように思えてならない。どのような世代でも遭遇したもの、環境、社会状況は異なり、それらが相まって、傾向・考え方が精製づけられていくため、一緒くたに議論していては何も始まらない。知識人をはじめとした論者は、若者論を語るよりももっと実りのある議論をすべきではないかというのが本書を見て思った。