暴走する脳科学~哲学・倫理学からの批判的検討~

脳科学はこれまで当ブログでも、書評を行ってきた。もちろん脳科学という分野を説いた本には玉石混淆であることはもはや書くまでもない。しかしその脳科学に対し、哲学・倫理学の観点から批判する本が出てきた。哲学・倫理学となると、生物学や科学などとの対立は今も昔もある。たとえば「生命」に関してが最も良い例で、クローン人間や遺伝子組み替えなどが対立軸の要素となっている。

さて、脳科学における「科学」と「哲学・倫理学」の対立軸は一体どこにあるのか、本書とともに紐解きたい。

第一章「脳の時代と哲学」
脳科学の発展が目覚ましかったのは1990年代の頃である。その時は筋ジストロフィーやアルツハイマーなど原因不明・対処不明の難病について遺伝子的、脳的に解析をすることができた。しかしそういった科学の発展において、哲学の観点から疑問を呈したのは、「心の働き」や「心と脳の関連性」などが脳科学において解明できるのかである。そして哲学から見て、脳科学がいかに危険なのかについて、

「脳科学の危険性は、それが個人をコントロールするテクノロジーとして権力によって利用されてしまうことにある」(p.35より)

これに関連して心理学についても危険性は指摘されているが、本書はあくまで「脳科学」を機軸にしているため、ここでは割愛する。

第二章「脳と拡張とした心」
そもそも哲学は「私」などの森羅万象について考察を行うのだが、科学的な見地から解き明かしているのではなく、あくまで概念的思考にて、命題を研究することによって展開している。それに対し脳科学はfMRIなどを駆使して体系的に解き明かしているのだが、果たして脳科学でもって心を解き明かすことができるのか、というと拡張解釈されているのではないかと、著者は指摘している。

第三章「マインド・リーディングは可能か」
心を読むというと「コールド・リーディング」や「ホット・リーディング」など心理学的な方法について用いられている。
では、脳科学の観点から心を読むことは可能かどうか疑問を呈しているのだが、たとえば「ウソ発見器」についてはどうか、という疑問が浮かんでしまう。

第四章「社会的存在としての心」
「社会的存在」は哲学・社会学にてよく使われる用語である。これは、

「史的唯物論で、社会の経済的構造をなす生産関係の総体。社会の実在的な土台であり、社会意識を決定するものとみなされる」「広辞苑 第六版」より)

と定義づけられている。その心について哲学的な観点からどのように定義づけられているのか、そのことについて取り上げている。

第五章「脳研究は自由意志を否定するか」
脳科学研究にて実験について哲学と論争した事例はある。それは「ベンジャミン・リベットの自由意志に関する実験」である。自由意志が脳科学にて明らかになることができるか、ということを表しているのだが、それは哲学者からすれば「人間として持っている意志を否定している」という考えになるのだという。

第六章「脳神経倫理」
脳神経には倫理があるのか、というと、そもそも科学そのものに「科学倫理学」が存在しない。しかし著者はその必要性について説いている。

脳科学の発展はとまらないものの、著者はリテラシーを持っているのかどうかはなはだ疑問に思ったのかもしれない。そのまま勧めてしまうと、社会として健全な存在からはずれてしまうのではないか、わかりやすく言うと権力争いの道具や非人道的な実験が行われるのではないか、と危惧しているのかもしれない。そのために本書を出版したのではないかと私は推察する。