笑いの日本文化―「烏滸の者」はどこへ消えたのか?

「笑い」というと日本では、落語・漫才・喜劇などが挙げられる。そう考えると日本文化には必ずと言っても良いほど「笑い」が根付いている。しかし本書は漫才や落語を取り上げている訳では無い。「烏滸(おこ:おろかなこと。ばか。たわけ。)の者」について取り上げているが、簡単に言えば、落語の世界で言う所の「与太郎」、のような存在なのだが、元々民俗学者の柳田國男が、

「進んで人を笑わせ、楽しませる者のことであり、さらに歴史をさかのぼれば、神を笑わせる者」(p.16より)

と定義している。そのため「烏滸」は高尚に扱われているが、その「烏滸」と今の「笑い」とはどのような違いがあるのか、その起源を含めた歴史背景について迫っている。

第一章「笑いの起源をたどってみれば」
「笑い」について体型的に定義されたのは今から2300年以上も前の事、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが定義されたことから始まる。日本では古事記の神話にも出てくる。そこに出てくる「天の神の笑い」を「(雷の)音」として発見され、神の訪れとしたのだという。

第二章「神と笑いと日本人」
その「笑い」は神の訪れと共に、「神への捧げ物」として「笑い」が存在するという。その起源となったのは弥生時代前後にまで遡るという。

第三章「「笑い神事」に秘められた謎」
「笑い神事」の中には「奉納落語」もある。いわゆる神々に「笑い」を捧げるというものであるが、他にも山村で行われる「オコゼ笑い祭り」も取り上げられている。本章の中心になるのは後者であるが、これについて柳田國男が考察を行ったのだが、大いに悩んだのだという。

第四章「共同体の変容と「笑い」の変化」
時代と共に「笑い」も変化していったのだが、民俗学用語で言う所の「ハレ(祝祭)」と「ケ(日常)」の区別を明確にした「笑い」ができるようになった。第三章まではどちらかというと神に捧げるための「ハレ」の中での笑いが取り上げられてきたが、本章以降になると「ケ」に重点を置いている。

第五章「都市化・近代化と笑いと変遷」
時代は近代に変わってくるにつれて、笑いは「家畜化」していった。どういったことなのかというと共同体において最も権力を持つ者が意図として「笑い」を使う、いわゆる「蔑み」という意味合いで使われたことから、そう名付けられた。そして笑いは民衆に対して一種の「芸」として扱われるようになった。落語がその例の一つである。

第六章「グローバル化社会と烏滸の者」
現代になっていくに連れて「烏滸の者」が消えていくようになってしまったのだが、その要因として何があるのか。それは「神事」としての「笑い」から、他人に笑わせるため、お金を稼ぐため、積極的に「笑い」を提供するようになってから消えていったのだという。その背景として「グローバル化」が挙げられるというが、その例として二代目桂枝雀を引き合いに出している。

第七章「「笑い」に挑んだ知の巨人たち」
「烏滸」について取り上げた学者は何人かいる。その一人として本書で取り上げた民俗学者・柳田國男もいれば、フランスの哲学者のアンリ・ベルグソンなどが本章にて取り上げられている。

第八章「災害の国日本と「無常の笑い」」
日本は地震・津波・火山噴火・台風など様々な災害に見舞われる国である。その中で「烏滸」はどのような存在なのか、本章では落語「天災」などをもとに解き明かしている。

「笑い」について取り上げた本はこれまで哲学的な観点で取り上げるものがあった。しかし本書の様に「民俗学」にて「笑い」を考察した本はこれまで存在しなかった。と同時に神話の時代から紐解いていく所を見ると、烏滸や笑いは「奥深い」と言いざるを得ない。