宮城黎子の昭和テニス史―グッドデイズ、グッドイヤーズ、グッドライフ

今、テニスが熱いといえる。その理由として、昨年から起こっている錦織圭選手の活躍により「錦織フィーバー」が続いていることにある。昨年は全米オープンで日本人初の準優勝を獲得し、今年もメンフィス・オープンで史上初の3連覇を達成するなど、大活躍をしている。その熱いテニスの世界は、昭和の時代ではどのようなものだったのか、日本テニス界の黎明期から活躍したテニスプレーヤーである宮城黎子氏のテニス人生とともに解き明かしている。
(ちなみに著者の宮城氏は本書が出版された2008年に癌のため86歳で逝去した)

第1章「私がテニスプレーヤーになった理由(わけ)」
宮城氏が生まれたのは1922年、「大正ロマン」の栄えた時代であった。当初は浅草に住んでいたのだが、小さいころに関東大震災に遭い、田園調布に移ったという。その田園調布にて父に影響を受けテニスを始めたという。そのテニスを始めて間もない時にテニスのメッカとなる「田園コロシアム」が完成し、テニスの試合を観戦することがあったという。

第2章「全日本8連覇への道のり」
やがて大東亜戦争が起こり、宮城氏はテニスを一時辞めざるを得ない時期があった。そして終戦を迎え再びテニスが始められてから、様々な大会に出場するようになった。その一つとして全日本選手権だった。宮城氏は1956年から1963年まで8連覇を達成した。その中でのライバルの存在、応援してくれた方々の存在について本章にて綴られている。

第3章「ラケットとカメラを抱えて」
現役時代真っ只中のころからテニス記者・テニス誌の編集者を始めるようになった。その記者時代には、貨物船に乗って海外のテニスの試合を取材するといったことも行っていたという。また、現役時代からテニスショップを開業したり、さらには指導者として後進の指導を行ったりもしていた。

第4章「日本のテニス界を世界の舞台に」
宮城氏が現役、および一線から離れて間もない時は男尊女卑があった時代だった。その時代の中で宮城氏は立ち上がったという。その一つとしてウィンブルドンをはじめ、世界各地のテニスの取材を行うことがあった。この取材旅行には宮城氏をはじめ、当時プロ選手だった方々も含まれており、文字通り「大所帯」で渡ったのだという。その舞台のエピソードについて本章にてふんだんに盛り込まれている。

第5章「この一球は絶対無二の一球」
宮城氏は後進への指導も数多く行われた。日本代表監督も何度も経験しており、なおかつ全日本ジュニアの監督も務めた。その全日本ジュニア時代には90年代のテニス界で活躍する伊達公子(現:クルム伊達公子)松岡修造のエピソードもつづられている。とりわけ松岡修造に関するエピソードは重点的に取り上げられており、彼がウィンブルドンでベスト8進出を決める前のところでタイトルにある言葉を叫んだのだが、その起源についても記されている。

第6章「だからテニスはおもしろい」
テニスのラケットは進化しているのと同時に、テニスの試合も変化している。そう感じ取った理由として力がなくてもコートの状況を理解して、順応するようなテニスから、あたかも「格闘技」といえるようなパワーテニスの時代になったためであるという。
世界の第一線で活躍している選手たちを取材した中で、どのような変化があるのか、そしてどのような魅力がテニスにはあるのか、本章にて綴られている。

第7章「テニス、わが人生の友」
宮城氏は幼少のころからテニスに触れ、選手として活躍し、指導者やテニス雑誌の編集者や記者として活躍しているだけあり、本省のタイトルはまさに宮城氏そのものを表している。もちろん宮城氏以外にも本章のタイトルを地で行っている方々がいるのだが、その方々の話についても取り上げられている。

第8章「テニスと出会えた幸せ」
幼少のころからテニスに触れ、そのテニスが宮城氏の人生そのものになっていることへの感謝を綴っている。

戦前から日本にはテニスの文化は存在していた。そしてプロのテニス選手は戦後誕生し、そして世界へと活躍した選手も数多くいた。現在では最初にも書いた通り錦織フィーバーにあるのだが、宮城氏はそのことについてどのように思っているのだろうか、本書を読んでいてそのことがずっと頭に浮かんでいた。