イスラームへの誤解を超えて―世界の平和と融和のために

IS(いわゆる「イスラム国」とも呼ばれている)、およびイスラム過激派団体による事件が今でも後を絶たない。特に先日は日本人男性2人が拘束・殺害されるという痛ましい事件が起こった。この事件を含めたイスラム国の話題のなかで、イスラム教について、過激なことをすることを是としているというようなことを聞くのだが、コーランの解釈により他宗教とは排他的ではない、あるいは殺生を禁じていると言う解釈もあれば、文字通り他宗教とは排他的であり、ジハードも辞さないというような解釈もある。しかし、イスラム国やイスラム過激派団体は「コーラン」を都合よく解釈しており、イスラム教の体をなしていないといわれている。
では、本書の話に移る。本書はイスラム教に対してどのような「誤解」が生じているのか、そして誤解をどのように超えたらよいのかを提示している。

第1部「真のイスラームをめぐる闘い」
イスラム教の宗派には、「シーア派」と「スンニ派」などの二大宗派が有名である。その宗派を分けると「過激派」や「穏健派」というような分け方がされるのだが、特に「過激派」と呼ばれる存在は別名で「原理主義者」「武闘派」「ジハーディスト(聖戦主義者)」などがある。(シーア派・スンニ派とも解釈によるが過激派と呼ばれるが、穏健派である意見も存在する。そのため本章ではあえてどっちが過激派かというのは問わないようにしている)
ここでは「過激派」と呼ばれる「厳格主義者」の存在について歴史的な観点から取り上げている(本書では「過激派」について「厳格主義者」と定義づけている)。そこで取り上げられる歴史は事件もさることながら、なぜそういったことを移すのか、その一つとして「宗教的権威付け」や「排他的思考」などが挙げられる。

第2部「穏健派と厳格主義者はどこがちがうのか」
おそらくイスラム教における大きな関心事というと「穏健派」と「厳格主義者(過激派)」には、どのような違いが存在するのか、である。本章では両方とも共通している部分(信仰告白、礼拝、断食、巡礼など)をはじめ、歴史と社会のアプローチ、他宗教との接し方、戦争やテロリズム、女性(性的搾取)について取り上げている。中でも印象的なものはイスラム国で復活させた「奴隷制度」についてである。

「奴隷制度をどう見るかについては、20世紀中にほぼ決着がついている。奴隷制度は違法で不道徳とみなされ、イスラーム諸国では例外なく違法とされてきた。(中略)そうであれば、なぜ厳格主義の法学者がこの問題を蒸し返すのか?また、なぜ奴隷制度を罪深く忌まわしいものと考える数多くの法学者を、西洋に盲従する異教徒と非難するのか?これについては二つの点を考慮する必要があると私は考えている」(p.275より)

イスラム国のみならず、過激派に与する法学者もまた奴隷制度を是としているのか、不思議であるのだが、特に「西洋の盲従する」と非難しているように思えてならない。もっともキリスト教が政治的に深くかかわっていた中世ヨーロッパの時代でも奴隷制度はあり、必ずしも西洋は歴史的に奴隷制度を忌避しているわけではなかったように思えるのだが、どうなのだろうかと首をかしげてしまう。