現象学という思考~<自明なもの>の知へ

「現象学」と言う学問は、普段生活している方々だとあまり知らないため、まずはどのような学問なのか説明する必要がある。現象学とは、

「古くは本体と区別された現象の学という意味に用いられた語。今日行われているのはヘーゲルとフッサールの用法」「広辞苑 第六版」より抜粋)

とある。日常にある経験・見聞きなどを「現象」と指し、その「現象」がどのような本質を見出しているのか、と言うことについて提示された学問であり、意味の中にあるエトムント・フッサールによって定義づけられたと言われている(これにはフリードリヒ・ヘーゲルマルティン・ハイデッガーなど諸説ある)。
「現象学」は分かったものの、現象学で扱っている「現象」とはいったい何なのか、そして現象学ではどのような思考を持っているのか、本書ではそのことについて取り上げている。

第一章「「確かである」とはどういうことか?―「あたりまえ」への問い」
日常生活において「確か」や「あたりまえ」と言ったものがある。しかしその「確か」や「あたりまえ」は哲学的な観点からどのようにして問うことができるのか。哲学的に切り分けると、哲学でよく使われる「絶対的な確かさ」と日常にある「確かさ」「あたりまえ」とはイコールではないのだという。前者はオール・オア・ナッシングで測られるのだが、後者は個人の価値観に委ねられている。

第二章「「物」―流れのなかで構造をつかむということ」
「物」というと、机や椅子など見える物体のことを表し得ているのだが、あくまで本書にある「現象学」において定義されている「物」の一部分に過ぎない。しかし現象学的に定義されている「物」は先程も書いた形のある「物」だけでは無く、空気と言った目に見えない「物」も含まれる。

第三章「本質―現象の横断的結びつき」
「本質」と言うと、ある事象がなぜ起こったのか、と言う要因から、原因・結果を表すために用いられているものとして表すことができるのだが、現象学において「本質」とはいったいどのようなものを指しているのか、キーワードとして前章で定義された「物」の他に「本質直観」と呼ばれるものが用いられる。

第四章「類型―われわれを巻き込む「形」の力」
種類など共通する点が一つでもあると「類型」と定義されるのだが、その類型は現象学的に言うと、「形」と呼ばれる物を受動的に巻き込むことができる。その「類型」がなぜ「形」を巻き込むことができるのか、本章ではそのことについて考察を行っている。

第五章「自我―諸現象のゼロ変換」
「自我」は言うまでも無く「自分」「私」など自分自身の内面的な感情・人格などを表している。もちろん目に見えないものなのだが、その「自我」は現象学の観点からどのように定義されているのか、本章では前章で定義された「類型」ともとに考察を行っている。

第六章「変様―自我は生きた現在に追いつけない」
「変様(へんよう)」とは、

「1.事物の様態の変化すること。
2.実体が一時的の偶然的な形態をとること。」「広辞苑 第六版」より)

とある。哲学的な意味としては2.が定義されており、現象学でも同じように2.についての考察を行っている。

第七章「間主観性―振動する「間」の媒介」
「間主観性(かんしゅかんせい)」は簡単に言うと、

「主幹同士の関わり合い、他者との関係のこと」(p.220より)

という。第五章で定義された「自我」を「主観」と置き換え自分と他人の関係が現象にどのような影響を及ぼすのかについて考察を行っている。

本書はフッサールの著作を中心に現象学とは何かについて考察を行っているが、元々フッサールとは誰か、フッサールの定義している現象学は何なのかの定義を知っておかないとついていけない。そう考えるとある程度現象学を知っている方々であれば魅力的な一冊と言える。