退屈のすすめ

私自身、仕事が多く、なおかつやることも多いため、退屈になることは少ないのだが、時として退屈になることもある。そういった状況になると、自堕落な性格が最大限に発揮され、ぐうたらしてしまう。なぜなのかと自問自答をしてみたら、元々「退屈」を想定して、やることを考えていなかったことにある。ではその「退屈」をいかにして遊べばよいのかと考えてしまう。そう考えてしまっている時に本書を手に取った。

第一章「靴と遊ぶ」
私自身「靴」と言うと、革靴にしろ、スニーカーにしろ、「履いて大丈夫だったら良い」という認識にあった。しかし、その認識は誤りであり、靴にこだわることも退屈を遊ぶ一つのツールだったという。ではどのようにしてこだわっていけばよいのか、履き心地はもちろんの事、和洋などが挙げられるという。

第二章「声と遊ぶ」
「声」と言うと歌などを連想してしまうのだが、本章でいう所の「声」はいわゆる「朗読」の事を指す。私自身も本を読むことが好きであり、たまに、ではあるものの、声に出して本を読むこともある(気に入った文章や、心に刺さった言葉など)。黙読にしてもおもしろいのだが、朗読など、声に出して読む、すなわち「音読」をすることによって、自分自身の記憶を刺激するだけではなく、「体で憶える」こともできる。

第三章「体と遊ぶ」
その「体」と遊ぶというと、「運動をする」というイメージを持ってしまうが、本章では「体と上手につきあう」方法を取りあげている。何を取りあげているのかというと、非常にユニークで「自分の裸を鏡に映す」ことや「上手に尻を拭く方法」と言ったものがある。下世話に見えるのだが、人間としての本質をことごとく突いているように思えてならない。

第四章「車と遊ぶ」
「若者の車離れ」と言うように、私たちの世代では車を買う人が少なくなっているという。かく言う私もその一人であるが、実際に免許を取ったものの車を購入すること、そしてそれをドライブすることにいささか抵抗がある。ご存じの通り車は下は数十万、上は数千万~数億といったものまであり、なかなか手が出せない。もっと言うと購入してからは自動車保険など様々な費用がかさむこともある。
しかし車には運転をするだけでも、運転しなければ触れることのできない開放感や空間が存在するという。著者は長年横浜に住み、日曜日には毎週のように車を運転していることについて触れている。

第五章「アートと遊ぶ」
絵画が好きで美術館に足を運ぶ方も少なくない。私自身も年に1~2回ではあるものの、美術館に行くことがある。私の住んでいるところは鎌倉であるため「神奈川県立近代美術館(鎌倉館)」と言ったところがある。
しかし美術館は絵画などの芸術品が飾られており、その作品を嗜むことも一つとしてあるのだが、ほかにも絵画などをみる方々の人間観察をすることもまた、美術館を楽しむ一つの要素であるという。

第六章「本と遊ぶ」
私自身、大学生の頃からずっと「遊ぶ」と言うと本と遊ぶ。本章でも「活字を読むのは病気である」と取りあげているが、まさに自分自身も「病気」のごとく活字中毒にかかっていると言っても過言ではない。しかしその病気にかかっている事ですら「遊ぶ」ことの一つであるため、退屈を遊ぶことができる。

第七章「夢と遊ぶ」
「夢」と言うと昼寝をするのかな、と思ってしまうのだが、本を読んだり、ボーッとしたりするなどする、いわゆる「夢うつつ」と呼ばれる状態になって遊ぶことを挙げている。

第八章「何とでも遊ぶ」
退屈な時間でもやり方によっては「仕事」にしても「作業」にしても、「遊び」にする事ができる。もちろん仕事にしてもプライベートにしても「退屈」と呼ばれる時間・ことが出てくる。それをいかにして遊んでいくのか、それは自分自身の思いに関わってくる。

「遊ぶ」ことを不謹慎だと考えている方もいるのだが、退屈は誰しもやってくる。その「退屈」なひとときをいかにして利用し、「遊び」に変えていくのか、そのことだけで、人間としての奥深さが関わってくる。本書は「退屈」をチャンスととらえ、それを「遊ぶ」ためのすすめとなる一冊である。

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