踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽

今となってはJ-POP言われている日本の音楽であるが、かつては「歌謡曲」と呼ばれていた時期があった。その歌謡曲もただ歌うだけではなく、ダンスとともに歌われた(もちろんジャンルにもよるが)。

ダンスというと、色々な「リズム」が存在するのだが、本書はその「リズム」の視点から昭和歌謡の歴史について紐解いた一冊である。

第一章「ダンスホールとジャズの戦前戦後―占領期1952年まで」
大東亜戦争、もとい日中戦争以前にはジャズなど外国の音楽が取り入れられることが多かった。しかし戦争の際に「英語使用の禁止」があり、外国の音楽をかける、あるいはレコードを所持すること自体禁じられていた。
終戦を迎え、GHQによる占領により、再び欧米の音楽が舞い戻り、米軍慰安施設などにダンスホールができるようになった。

第二章「ニッポン「ラテン音楽」事始め―1955年という画期」
欧米から取り入れられたものにはロックやフォーク、ジャズといったものがあるのだが、ラテンは戦争が終わってしばらくしてからであった。もちろんアメリカの音楽でもラテンが取り入れられたのは戦後間もない時だったので、同時進行で広がりを見せた。その日本における広がりは次章で取り上げる「マンボ・ブーム」となっていった。

第三章「マンボ・ブームとニューリズム時代の幕開け―19555~1957年」
マンボというと連想するのが、「マンボ№5」である。これは1949年にペレス・プラードというキューバの作曲家が手がけた。その後同じザヴィア・クガートが3年後同名の曲を発売して対抗したことから北米で「マンボ・ブーム」担ったことをきっかけに、そのブームが日本にも出てきた。かの美空ひばりも1952年に「お祭りマンボ」を録音をしているほどである。

第四章「「国産」ニューリズム・ドドンパ顛末記―1960~1961年」
マンボ・ブームの影で密かに誕生したのが「ドドンパ」である。これは海外から取り入れられたものでは無く、日本で誕生したものであり、「7・7・7・5」調の都々逸と、ルンバを合せたリズムのである。
そのドドンパが広く知れ渡るようになったのが1961年、渡辺マリの「東京ドドンパ娘」である。

第五章「ツイスト上陸!「ダンス狂時代」―1962年」
日本でドドンパが出てきたことと同時に、北米では「ツイスト」と呼ばれるダンスが誕生し、流行した。流行の起因となったのは1960年にデイビー・チェッカーがTV番組から生み出した「ザ・ツイスト」という曲である。それがアメリカのポップチャートの上位を獲得し、ブームとなっていった。日本にも渡った「ツイスト」が広がりを見せたきっかけとして小林旭の「アキラでツイスト」がある。

第六章「ニューリズムの迷走・ボサノヴァ、タムレ、スカ―1963~60年代後半」
ツイスト、ドドンパなどのニューリズムと良ばれる音楽は新たな展開を見せ、新しく「ボサノヴァ」「タムレ」「スカ」などのリズムも誕生した。しかし、そういったあたらなりズムが誕生することにより、ニューリズムの定義が段々揺れてきてしまった。

第七章「お茶の間はダンステリア―ディスコとアイドル歌謡の1970~80年代」
ニューリズムが陰りを見せてもダンスは勢いを保ち続けた。ピンクレディーをはじめとしたアイドルの踊りも出てきており、ディスコが誕生、さらには竹の子族やストリートアイドルが出てくるなど、ダンスは歌手やアイドルだけでは無く、一般にも広がりを見せていった。

第八章「ユーロビートは「帰ってきたドドンパ」か―1980年代後半以降」
ユーロビートというと、私自身2000年に入る前後に「パラパラ」という踊りがブームになり、ユーロビートが広がりを見せた認識であった。しかしユーロビート自体生まれたのは1970年代後半、イタリアにて形成されたのだという。

ダンスは今も昔も存在する。もちろんそれらは歌の変容と共に、ダンスも変容する。しかしダンスだけにスポットを浴びてみると、日本独自に生まれたものから、欧米から伝来したものまであるのだから、ダンスとひとえに言っても奥が深い、そういうことを本書でもって知る事ができる。