戦争体験は無力なのか ある政治記者の遺言

今年で終戦70年という節目を迎える。節目というわけではないのだが、その長い年月の中で語り継がれているのが「戦争体験」である。私の祖母も大東亜戦争により疎開を経験したことから小さい時に戦争のことについて語っていたことを今でもはっきりと覚えている。もちろんその戦争体験は今でも語り継がれているのだが、本当にそれは無力なのかと疑問を投げかける記者がいた。本書は長年政治記者を務め、政治の表・裏の世界を知り尽くした方が、政治の現在と戦争体験の関連性について取り上げている。

Ⅰ.「昔の影が伸びてくる」
戦争体験と言うと「戦争の悲惨さ」や「戦争という名の「異常」な世界」を連想してしまう。しかし著者の言う「無力」というのは、戦争をいかにして食い止めることができなかったのか、そして戦争に対して反駁をすることができなかったのかを表していることから「無力」と語っている。
大東亜戦争以前の時には政府としては最大限アメリカと譲歩しつつ交渉を行ってきた。しかし陸軍の軍部をはじめ、大衆、さらには新聞各社とも「開戦せよ」と煽り立てるような記事が多く見られた。
その反省が活かされているかというと、必ずしもそうではない。そのことから歴史を学んでおらず、むしろ二の舞になってしまっているということを表しているのではないだろうか。

Ⅱ.「いまの政治は腐っている」
本章は1999年末から2002年までの政治状況を表している。1999年末と言ったら小渕内閣から始まり、森内閣、そして小泉内閣へと移っていった。政治の根幹を握る与党は自自公連立政権から自公連立政権という感じで変遷していったのだが、長らく(非自民・非共産連立政権だった1993年8月~1994年6月という時期を除いて)自民党が政権を握っていたということもあり、著者は「腐っている」と斬り捨てている。ちなみに本章で言う「腐敗」は2000年4月ごろ小渕恵三氏が脳こうそくで倒れ(のちに逝去)、「五人組」により、首相が森喜朗氏に引き継がれた。そのことで「密室政治である」ことを批判しているところにある。

Ⅲ.「選挙制度と政権交代」
本章では2002年から2004年のことで選挙制度によって政権交代が起こらないと断言したのだが現に2009年8月に政権交代が起こったため、著者の予想は外れている。
とはいえ、選挙制度そのものは万全かというとそうではない。もっとも投票率も60~70%代を維持していたが、1994年の公職選挙法改正により衆議院総選挙が小選挙区比例代表並立制に移行した時に、投票率は下がっていった。現に2014年の衆議院総選挙も過去最低の52.66%を記録したほどである。また「一票の格差」も訴訟にまで発展しており、これについても根本的な対策が必要である。

Ⅳ.「衰退するジャーナリズム」
ジャーナリズムが脅かされることは少なくない。ある新聞社を襲撃される、あるいは会談中自殺を遂げるといった事件もあれば、昨年の場合はまたある新聞の支局長が外国で裁判を受けたということもあったという。そのような言論封殺は言語道断なのだが、それ以前に新聞そのもののも「自浄能力」があるかどうか問われるようなことも昨年起こっている。そのことからジャーナリズムは衰退しているかというと、必ずしも「NO」とは言えない。

Ⅴ.「社会主義勢力不在の不幸」
「保守」「革新」「右翼」「左翼」
その概念が生まれたのは冷戦のころ、当時ソ連と西欧諸国との対立があった。方や共産主義や社会主義、方や民主主義とイデオロギーの対立がはっきりとしていた。
しかし1991年、ソ連が崩壊し、革新や左翼といった勢力は崩壊してしまった。また「保守」「右翼」と標榜していた方々も右往左往する状態にあった。それでも現在は「保守」「革新」は、形は変われど、社会主義や共産主義というわけではなく、弱者か強者かという新たな「対立軸」を生み出し、戦っている。

最初に書くのを忘れてしまったのだが、本書は朝日新聞の記者2人である。その2人が90年代から2000年代前半の政治について批判的に取り上げたのだが、社会主義を礼賛し、それでいて今の自民党政治は戦争の引き金になる、という論調を見ると、かつてあった、「左翼」を彷彿しているように見えたのは私だけであろうか。

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