東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実―GHQの検閲下で報じられた「東京裁判は誤り」の真相

今年第二次世界大戦、及び大東亜戦争が終結してから70年という節目を迎える。この70年間で世界的な情勢は大きく変わっていったのだが、それと同時に歴史に対する見方も多様になってきており、それによっての論争も激化していっている。もちろん事実は動かないものであるのだが、解釈が政治的ないざこざになるところを考えると、まだまだ戦争は終わっていないとも言えるのかもしれない。

その中で本書は昭和26年に新聞各紙にて取り上げられたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の総司令官などを歴任したダグラス・マッカーサー元帥東京裁判(極東国際軍事裁判)を誤りと批判した記事を取り上げたことについて取り上げながら、東京裁判の謎、GHQの検閲の裏側、そしてマッカーサー解任の謎について取り上げられている。

第一部「「東京裁判は誤り」の謎と真実」
東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて市ヶ谷にある陸軍士官学校講堂にて行われ、A級戦犯7人をはじめ多くのBC戦犯が死刑判決となった場所である。東京裁判における議論や経緯については別の本でも取り上げたのでここでは割愛するのだが、ここではマッカーサーと東京裁判との関係性について、大きく分けて、

・東京裁判の批判
・東京裁判の判決を支持した理由
・天皇不起訴の真実

について取り上げられているのだが、中でも「天皇不起訴」の判断を決めたのは東条英機の証言がきっかけになったことは有名であるのだが、実際に米国、ないしGHQは天皇不起訴を決めていた。しかし天皇訴追を行おうとしていた国もあり、その駆け引きも東京裁判の中には存在した。

第二部「GHQの設置と言論検閲の実態」
GHQが設置されたのは終戦して間もない昭和20年9月のことである。主に何をやったのかというと、「戦争犯罪人の逮捕」「公職追放」「言論検閲」「非軍事化」「民主化」と言ったものが挙げられる。その中で「言論検閲」は徹底的に行われ、焚書となった本も数多くある。焚書された本に関しては評論家の西尾幹二氏の「GHQ焚書図書開封」シリーズが詳しい。GHQにおいて言論検閲はどのようにして行われたのかというと、実際には「民間検閲支隊(CCD)」という組織をつくり検閲を行っていたという。しかしそこでも謎があるのがマッカーサーの東京裁判批判だけではなく、東京裁判批判を行った論文もあれば、新聞にも社説・記事にて批判を行ったものもある。それらもまた検閲で削除や掲載禁止、さらには出版禁止を受けなかったのだが、その理由についても取り上げている。

第三部「マッカーサー解任の内幕と「東京裁判は誤り」の謎と真実」
マッカーサーが東京裁判について「誤り」と指摘し、批判したのが報道されたのは昭和26年の5月であった。その前月に連合国総司令官の座から退任したばかりのことである。全国紙をはじめ地方紙でも数多く取り上げられたのだが、新聞にて取り上げられたことからGHQにて掲載が許可されている。マッカーサーが批判した理由もさることながら、本来であれば検閲して報道されないのであるが、なぜ許可したのかというのが非常に気になってしまう。その背景は第二部にて掲載禁止などにしなかった理由にも通じ、さらには1951年4月にマッカーサーが総司令官を退任するきっかけとなった朝鮮戦争がある。朝鮮戦争の軍事的な意見についてマッカーサーとトルーマン米大統領との対立が深く、マッカーサーは退任する(厳密にはトルーマンがマッカーサーを解任した)こととなったことにより、東京裁判における一連の批判が検閲に引っかからなかった原因となったのである。

東京裁判についての批判はこれまでも色々とみてきたのだが、その主導者であったマッカーサーが公に批判していたのはあまり知られておらず、ましてやそれがほとんどのメディアで封じられることなく報道されたが、そのカラクリは謎に包まれていた。本書ではそのカラクリを初めて明かすとともに、これまで信じ込まれてきた定説の一つを覆す一冊と言えよう。