原爆と検閲

8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下され甚大な被害に遭い、数十万人もの命を奪ってからちょうど70年の時を迎えた。終戦後原爆についてアメリカでは報道をする、あるいは結果を検証するために報道関係者や軍が広島・長崎に渡ったのだが、日本における惨状を伝えることなく、むしろ原爆の効果を大々的に報道したという。その原因として日本でも行われたGHQの検閲と同じように、アメリカでも言論に関する検閲が行われていたのだという。本書は原爆に関する報道の検閲についてアメリカでどのようなことが行われ、伝わっていったのかを取り上げている。

第1章「航空特派員たちが見た広島」
アメリカの新聞・テレビの航空特派員が広島に渡ったのは終戦間もない1945年9月3日のことである。その特派員たちはどのようにして日本に渡ったのかと言うと米空軍によって派遣されたといったほうが正しいのかもしれない。
しかし特派員たちが見た広島は筆舌尽くしがたいものであり、手記や検閲前の報道ではそれがありありと伝えられていたのだが、こういった報道は次章にて加筆修正されるなどの検閲が行われた。

第2章「アメリカでの掲載記事」
当時のアメリカは日本に対する嫌悪感が非常に強く、「ジャップ」と呼ばれる蔑称まで名付けられ強く罵った。第1章で伝えようとした記事がメディア機関によって放射能の惨状を削除し、原爆による効果と、諸外国に向けて、侵略をしようものならこのようになるという一種の「プロパガンダ」の要素を取り込むような論調にしていった。

第3章「長崎ルポと変わる論調」
広島にて投下した原爆に関する記事がプロパガンダとして利用されるのと同じように、8月9日に長崎にて投下された原爆に関する報道でも同様に報じられた。その中にはルポルタージュという形で報じられたメディアもあるという。

第4章「アメリカの検閲—第二次世界大戦下」
戦争における言論統制や言論検閲は日本に限ったことではない。アメリカでもイギリスでも行われていた。ではアメリカではどのような形で検閲を行っていたのかと言うと、日本では内務省・逓信省というところで検閲を行われていたのに対し、「自主検閲」という形でメディアの中で検閲を行うことになったという。この「自主検閲」は第一次世界大戦でも行われているため、第一次世界大戦と第二次世界大戦における自主検閲の違いについても比較している。

第5章「占領下日本の検閲」
本章については先日取り上げた本についても言及したが、そもそもそういった検閲について日本は慣れていたということを本章にて言及している。元々GHQ以前に、第二次世界大戦、及び大東亜戦争にて検閲が行われたことが理由として挙げられる。

第6章「航空特派員の”任務”」
第1章にて取り上げた航空特派員にはある”任務”があった。その任務とは原爆投下における「正当化」を探すこと、そして第2・3章でも取り上げたプロパガンダの材料集めというのもあった。

原爆に対する意識は日本と米国とで大きく異なる。日本では残虐なものといわれているのだが、アメリカではむしろ日本に対する懲罰のようなもの、あるいはアメリカに対して平和をもたらしたものとして取り上げられることが多いが、最近では日本と同じような報道をするところも出てきている。とはいえ原爆が投下された当時の日本とアメリカの事情、そして現在の日本とアメリカの関係は大きく変化はしているものの、いまだに原爆に対する考えの隔たりは存在している。その隔たりについて本書でもって明かしている。