第十六代徳川家達――その後の徳川家と近代日本

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「第十六代」というと江戸幕府の幻の将軍のイメージがあるようだが、本書で取り上げるものは「徳川宗家」の宗主を挙げている。ちなみに先代の「第十五代」は江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜である。宗家を継いだのは4歳の時であるが、その時は大政奉還が行われた時であり、その後明治時代という激動の時代の中枢の一角を担っていたのだが、歴史の教科書ではあまり取り上げられておらず、有名とはいいがたい。
しかし明治時代と徳川との関係を知るうえで非常に重要な人物であるのだが、その徳川家達という人物はどういう人物なのか、本章では生い立ちから取り上げている。

第一章「第十六代徳川家達の誕生」
徳川家達(とくがわいえさと)が生まれたのは1863(文久3)年田安慶頼の三男として生まれた。生まれてから4年もたたないうちに、田安徳川家、そして徳川宗家を受け継いだ。

第二章「七十万石のお殿様」
家達が生まれた時は江戸時代から明治時代の境目となる「激動」の時代であり、宗家や家督も幼いときになるような事象もあった。しかし徳川宗家が継がれたのは4歳であり、それと同じくして七十万石のお殿様になったのだが、異例だったが前の宗家である徳川慶喜が存命だったときだった。そもそも宗家が引き継がれた理由として徳川家の内情というよりも新政府の意向だった。宗家を継いだのちに「お殿様」になったのだが、どこのお殿様なのかというと「静岡藩」の藩主である。

第三章「若き公爵、イギリスへ」
1871年に廃藩置県が断行され、藩主の座は解かれた。8歳の家達は生まれ故郷である東京に向かい、暮らすことになったが、そのあたりから英語を学ぶようになった。その後1877年に家達はイギリスの留学することになり、汽船で横浜からイギリスに向かった。イギリスではカレッジに通いながら西欧の文化を学んでいった。

第四章「幻の徳川家達内閣」
家達が25歳になると、日本では帝国議会が開設され、同時に衆議院と貴族院も開設された。家達は貴族院議員の要件に満たしていることから就任した(のちに満30歳以上が条件となったのだが、設置当時は満25歳以上が就任条件だった)。議員として活動してわずか5年ンで貴族院議長になり、5期31年もの長きにわたって議長の座についた。就任当時はまだ30歳前後だったため、冷笑の的だったのだが、時間が経つにつれ評価を上げていった。
そしてその間、実は首相になるチャンスがあり、大正天皇から組閣を命じられたという。しかし自ら辞退したのだが、その理由についても本章にて言及している。

第五章「協調路線と暗殺未遂」
貴族院議長の期間中、議長職を続けながら、様々な公共的団体の長を勤め、社会事業への取り組みも積極的だった。また国際政治の表舞台にも経ち、海外のラジオ放送で演説をすることもあった。しかしそれらは協調路線のシンボルとして行われた一方で、血盟団などの手段が暗殺の標的になったという。

第六章「一族の長としての顔」
貴族院議長として、様々な公共的団体の長として活躍したが、本来は徳川宗家の長である。その徳川一族の長としてどのような顔を持ったのか、しきたりや天皇家との関係についてどのような手を尽くしたのが本章である。

第七章「徳川家の使用人と資産」
徳川家の殿様としての顔を持っていた家達の周囲には資産や使用人の存在もある。ほんしょうではそのことについて取り上げている。

第八章「日米開戦を前に死去」
家達の晩年と最期はどのような姿だったのか、そのことについて綴られているのだが、その中で勝海舟をはじめとした家達の人物評についても取り上げられている。

徳川家達の存在は歴史上の教科書ではあまり言及はなかったものの、明治維新から大東亜戦争が始まるまでの、いわゆる「戦前」の時代を取り上げるうえで、なおかつ貴族院のことを取り上げるうえで最も欠かせない人物の一人であることは間違いない。「徳川」という名は江戸時代を象徴する人物であったのだが、その名は明治から昭和になってもそれは衰えることなく日本の国家に深く関与してきたといえる。その象徴人物として徳川家達がいる。本書はそれを知ることのできる一冊である。

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