ああ栄冠は君に輝く~加賀大介物語~ 知られざる「全国高校野球大会歌」誕生秘話

この歌は「全日本高等学校野球選手権大会(通称:夏の甲子園)の歌」である。しかしその歌の誕生はあまり知られていない。この歌の誕生には本書のタイトルである「加賀大介」という人間が存在する。本書はその歌の誕生と加賀大介の人生について取り上げている。

第一章「雲はわき光あふれて」
加賀大介が生まれたのは1914年、第1回の夏の甲子園(当時の「全国中等学校優勝野球大会」)が行われる1年前の話である。当時の名前は「中村義雄」だった。北陸の片田舎で生まれ育った加賀は元気で外で遊ぶのが好きだったという。その幼少期の頃から野球にも親しんだ。尋常小学校・高等小学校に進みながらも野球に明け暮れ、ようやく中学に入学しようとしたとき、家庭の事情により断念せざるを得なかった。さらに野球をしていた時に足を切断するほどのけがを負ってしまい、もう二度と野球のできない体になってしまった。
絶望に打ちひしがれるような状況に陥った時に文学に目覚め、短歌や詩を創作するようになった。そしてその後に生まれたのが「栄冠は君に輝く」、戦後間もない1948年のことだった。

第二章「風をうち大地をけりて」
「栄冠は君に輝く」が生まれ、「全国高等学校野球選手権大会」の大会歌になったのは1948年である。しかし発表当時、作詞者は「加賀道子」、加賀の妻の名前になっている。それはなぜかというともともと「栄冠は君に輝く」という歌を応募したとき、加賀は妻の名前の名義で応募したためである。その理由は加賀が詩人ではなく「文学者」であったと考えたためである。
大会歌が生まれた後、加賀は文学の道を歩み、文学賞を目指すべく創作に励んでいった。しかし文学賞を受賞することができず、むしろ加賀よりも若い世代が次々と賞を受賞する姿を見て、挫折をすることとなった。

第三章「空をきるたまのいのちに」
「栄冠は君に輝く」は大会歌として浸透するようになったとき、新聞社から道子に対して取材を申し込む声もあった。そのことにより道子は苦悩にあえいでいた。その苦悩に対してついに加賀は自ら作詞者であることを告白した。そして「栄冠は君に輝く」の作詞者は「加賀大介」となり後世に語り継がれることになった。その後1973年に加賀は胃癌で帰らぬ人となった。

第四章「加賀の輪廻」
本章で取り上げている「輪廻」は加賀大介が生まれた北陸から新たに生まれた野球のスーパースターのことである。そのスーパースターは高校の時、あまりの強さに相手高校が「5打席連続敬遠」を選ぶほどのことだった。それから読売巨人軍に入団し、スターロードの道を歩んでいったのは言うまでもない。

今年、この「栄冠は君に輝く」は神奈川県の東海大学付属相模高等学校(通称:東海大相模)に選ばれた。毎年夏に開かれる夏の甲子園、その栄冠を目指すべく全国津々浦々の高校野球部がしのぎを削っている。その「栄冠」の夢は高校球児たちの胸にあり、その夢は加賀大介という野球の思いを馳せ、文学の道に歩みながら、「詩」にして遺した。今年で100年という節目を迎えた夏の甲子園を彩る歌はこれからも高校球児たちによって歌い継がれてゆく。