常識哲学―最後のメッセージ

そもそも「常識」というのは何なのかということをよく考える。私自身、元々は「常識」という言葉はそれほど嫌悪感はなかったが、その言葉をみだりに振りかざす人がいたことから、その人も含め「常識」ということに対して嫌悪感を覚えてしまった。
そもそも「常識」自体も相対性理論を生み出したアインシュタインの言葉で、

「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う」こちらのサイトより)

とある通り、その人自身の「偏見」とも言える。
しかし「常識」は誰にでもあり、本や人との出会いによってめまぐるしく変わる。著者もまた、様々な出会いによって常識を変化してきた。その常識の変化の集大成として本書を残している。

<臨床医の哲学>
著者は現役の精神科医で、数多くの患者を診断・カウンセリングをしてきた。また医者として活動していながら、多くの哲学書との出会いがあった。その哲学書の出会いが、著者の「常識」にどのような変化をもたらしたのか、そのことについて綴っている。

<常識哲学>
そもそも著者が哲学に出会ったのが学生の頃であるという。著者が学生の時代は哲学本が良く売れており、哲学者の名前・思想も知っているのが当たり前という状態だったという。その影響もあって、哲学にのめりこんでいったという。

<常識で考えよう>
「常識」を持っていても、その常識は人それぞれ異なる。もちろん常識によって見える見方は変わり、なおかつ思想も大きく変わる。もちろん著者も様々な本や人との出会いによって、本章のような「常識」を醸成していった。

<常識があれば、みんな平和を求めます>
「平和を求める心」はほとんどの人が持っている。持っていないとするならばよほどの戦好きか、平和に対する嫌悪感を持っている人くらいである。
それはさておき、常識はめまぐるしく変わるものの、不変的なものもある。本章ではそのことについても言及している。

最初にも書いたように元々「常識」という言葉に対して一種の嫌悪感を持っていた。その嫌悪感を完全に払しょくしたわけでもないのだが、価値観と同じように「常識」もまた変化することを本書でもって知ることができた。それだけでも本書に出会ったことで生まれた変化といえる。