「誰でもよかった」無差別殺傷になぜ走る―希薄な人間関係にもがく「青少年」たち

「誰でもよかった」

この理由で無差別殺人事件に走る人もいる。この理由から起こった有名な事件として2008年に起こった「秋葉原無差別殺人事件」、2000年に起こった「西鉄高速バスジャック事件」などがある。こういった無差別殺人がなぜ起こるのか、本書では現代の青少年がどのような境遇なのかを考察している。

第1章「青少年の「孤独」が自己確認型犯罪を生む」
本書で取り上げている無差別殺人事件はこれだけではなく、秋葉原と同じく2008年に起こった「JR常磐線荒川沖無差別殺人事件」や「岡山駅ホーム突き落とし事件」「八王子駅ビル無差別殺人事件」がある。特に八王子の件は動機については別とはいえど、秋葉原の事件と比較して取り上げられたことが記憶に残っている。

第2章「希薄な人間関係でもがく「ポストのび太症候群」の問題点」
人間関係のつながりは常々大切なことだと教えられるのだが、最近では他人との人間関係が希薄になっていく傾向にある。その弊害としてあるのが、元々劣等生や落ちこぼれが生まれると、そうさせないように引っ張り上げるというようなことがあるのだが、人間関係が希薄になったことにより、そういったこともなくなってきている。さらには少子化もあれば、親の過保護化といったことにより、子どもにかけられる期待が大きくなってきており、子どもはそのプレッシャーが大きくなり、どうすることもできなくなってしまった側面もある。その面もあれば、携帯電話などのハイテク機器が簡単に手に入り、使うことができることから何でも道具に頼ってしまう、ドラえもんで言う「のび太」のような状況になる。本書ではこれを「のび太症候群」と定義しており、それが発展したかたちとして機会としかつきあえない現状を表しているものとして「ポストのび太症候群」と定義している。

第3章「キレる青少年たちのこころを『ドラえもん』の教訓に学ぶ」
そういった「ポストのび太症候群」をいかに脱するか、その教訓として本章のタイトルから見るに「ドラえもん」があるのだというが、本章を見てみるとドラえもんの中でどこに教訓があるのか、明記されていない。むしろ青少年のキレる現状をどのように脱するのか、その傾向と著者の見解をもっての対策を取り上げている。

第4章「青少年たちを追いつめる、同質化教育のあり方を問う」
青少年が心的に追い詰めているのは、親の期待感ばかりではなく、一元化・同質化された教育システムにも原因があると本章にて指摘している。その中で第3章にて言及されていなかった「ドラえもんの教訓」が本章にて取り上げられていた。どのようなシーンなのかというとのび太が「ドラえもーん、何とかしてー!」とドラえもんにすがりつくというシーンがあるのだが、ドラえもんがどのように返すのか、そしてドラえもんの苦手なものに出くわした時に逆にドラえもんがのび太にすがりつくシーン、そして各話ごとに出てくるドラえもんの道具が何を意味しているのか、それらの描写における「教訓」とは何かを言及している。おそらく章立てを考え、本文を書いている中で、本文と各章のタイトルとで齟齬ができ、それについて対応できなかったのかも知れない。

第5章「青少年たちの世界を狭くしているのは、親の存在である」
子どもがふさぎ込み、電子機器に依存し、そして他人とのつながりも希薄になってきている状況の中で、子どもたちの見ている「世界」が狭くなっているという。それを狭くしている要員として教師と親が面と向かっているかどうかという疑問符が浮かぶのだという。

第6章「いま親が子どもに本音で語り教えるべき基本」
では子どもがキレる、あるいは希薄化する人間関係から救い出すにはどうしたら良いか、それは親が面と向かって本音で語り合うことが大切であるという。もちろん親は子どもに対する思いをストレートにぶつけること、そして子どもの本音を面と向かって受け止めて、反省すべき所は反省し、そして対応していくことが必要である。

子どもをはじめとした青少年たちが無差別殺人事件に走る原因は、子どもにもある一方で、それ以上に大人たちが本当に子どもと向き合っているか、そして社会が青少年たちに向き合っているのか疑問符ができていることが原因として挙げられている。そう考えると未然に防ぐためには子ども自身や社会と他人事として丸投げにせず、自分事として受け入れ、何をしていくのか一人一人が考えていく必要がある。