死刑冤罪―戦後6事件をたどる

冤罪事件というと痴漢冤罪など様々な事件があるのだが、その中でも大きな冤罪事件として本書にて取り上げる「死刑冤罪」となった事件がある。戦後から主だった事件として「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「島田事件」「袴田事件」「飯塚事件」が挙げられる。また6事件の他に本書では「足利事件」という冤罪事件を取り上げているが、こちらは死刑ではなく、無期懲役から再審となって無罪となったケースであるため、本書のサブタイトルで取り上げている「戦後6事件」の対象になっていない。

第1章「雪冤は果たしたけれど―免田栄さんの場合」
「免田事件(めんだじけん)」は、

「1948年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市で祈祷師夫婦(76歳男性・52歳女性)が殺害され、娘2人(14歳と12歳)が重傷を負わされ、現金が盗まれた。現場検証から犯行時刻は12月29日深夜から翌12月30日午前3時の間とされた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現あさぎり町)在住の免田栄(めんだ さかえ、1925年11月4日生まれ、当時23歳)を、玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、同月16日には殺人容疑で再逮捕した」Wikipediaより)

という事件である。この事件はあたかも拷問や脅迫まがいの取り調べや自白の強要によりでっち上げられ、1952年の最高裁で死刑判決となった。その後5回再審請求を行うも全て棄却され、6回目にしてようやく再審が開始され、無罪を勝ち取った。それが1983年の話であり、それまで30年以上にわたって死刑囚として収監された。それについて刑事補償法によって補償金が支払われるも、免田に対する批判が相次ぐなど、雪冤(冤罪を晴らすこと)を果たしても、不遇の人生をたどっていった。

第2章「たった一人の反乱―財田川事件と矢野伊吉元裁判官」
「財田川事件(さいたがわじけん)」は、

「1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現:三豊市)で、闇米ブローカーの男性(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
同年4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で2人組による強盗事件が発生した。その事件の犯人として谷口 繁義(たにぐち しげよし、当時19歳)ともう1人が逮捕された」Wikipediaより)

という事件である。「もう1人」逮捕された人物はアリバイが証明されて釈放されたのだが、谷口氏は起訴され、死刑が確定した。しかしその死刑確定までのプロセスの中で拷問や捏造といったことが行われたという。そのことが明らかになり、再審請求が行われ1981年に最新が開始され、無罪となった。ちなみに本章のタイトルにある「たった一人の反乱」の「一人」は当時一審の裁判長だった矢野伊吉氏のことであり、谷口氏からの手紙を受取り、裁判長を辞め、弁護士となり、再審請求に向けて動いたという。しかし再審無罪を勝ち取る瞬間を見ることなくこの世を去った。

第3章「家族離散―松山事件と斎藤幸夫さん」
「松山事件」とは、

「1955年(昭和30年)10月18日、宮城県志田郡松山町(現:大崎市)の農家が全焼し、焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、家主の妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と長男(当時6歳)の焼死体が発見された。遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷らしきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置された。
事件発生後、1ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げ、犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、東京都板橋区に勤務していた斎藤 幸夫(さいとう ゆきお、当時24歳)が浮上。12月2日、警察は斎藤の身柄を拘束するため、示談成立している喧嘩を傷害事件として別件容疑に、東京に勤務している事実を家出と偽り逮捕状を請求して逮捕した。同月8日以降、斎藤は警察の厳しい取調べで自白しては撤回を繰り返していたが、同月8日、警察は強盗殺人・放火の疑いで逮捕、12月30日に起訴した」Wikipediaより)

という事件である。この事件でも警察の自白強要や証拠の捏造により、最高裁で死刑判決を受けることとなった。その後再審請求が開始され、無罪を勝ち取った。しかしその冤罪に遭い、釈放されるまでの長い間、母や姉といった家族も巻き込まれるほどの闘いとなったという。

第4章「冤罪警察の罠―赤堀政夫さんと大野萌子さん」
本章で取り上げられている「島田事件」は、

「1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬莱橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。
1954年5月24日、当時の岐阜県稲葉郡鵜沼町(現各務原市)で静岡県警が重要参考人としていた赤堀 政夫(あかほり まさお、当時25歳)が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された」Wikipediaより)

この島田事件も第1章から第3章と同じく拷問や自白強要などにより、冤罪にされたのだが、他の冤罪事件と違って、冤罪に関してある人物が関わっている。その人物の名は「紅林麻雄(くればやし あさお)」。難解な事件を解決した名刑事である一方で、多くの冤罪事件をでっち上げた張本人として有名である。捜査や取り調べについても戦前の特高の手法を見紛うようなもので、拷問や先入観の持った取り調べ、自白の強要を常習的に行っていたという。ちなみにその手法によって仕立てられた冤罪事件として本章で取り上げる冤罪事件の他にも「二俣事件」「小島事件」「幸浦事件」がある。こちらも第1章から第3章と流れは同じく最高裁で死刑確定後、再審請求をかけられ、無罪を勝ち取ったケースである。ちなみに第1章から本章までの事件は「四大死刑冤罪事件」として有名である。

第5章「再審開始に向けて―無実のプロボクサー袴田巌さん」
再審開始された事件の中で最も記憶に新しい事件としてあげられるのが「袴田事件(はかまだじけん)」である。この事件は、

「1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定していた袴田巌元被告が判決の冤罪を訴え、2014年3月27日に死刑及び拘置の執行停止並びに裁判の再審を命じる判決が(即時抗告審での審理中のため未確定)された事件」Wikipediaより)

とある。前述の通り、まだ無罪判決を受けていないため、まだ現在進行形で再審が行われている事件である。この事件でも前章までと同じような取り調べが行われたのだが、前章と違う点が紅林の薫陶を受けた者たちが関わった所にある。その薫陶を受けた警官たちの取り調べや証拠の捏造によって最高裁で死刑が確定、そして再審請求がかけられ、2014年に再審が開始されることとなった。この流れの中で地裁の裁判官が2007年に合議の秘密を破ったことで話題となった。
余談であるが来月この一連のことを描いたドキュメンタリー映画「袴田巌 ―夢の間の世の中―」が公開される。

第6章「DNA鑑定の呪縛―飯塚事件足利事件
本書で取り上げる事件の多くは、死刑冤罪事件の中で再審が開始され、無罪となった事件だが、第5章のように再審開始が決定したものの、まだ無罪が確定していない事件もあれば、本章で取り上げる飯塚事件のようにまだ再審請求が行われている事件がある。飯塚事件と同じく本章にて取り上げられている足利事件とも1990年代に起こった事件であり(飯塚事件は1992年、足利事件は1990年)、なおかつ再審の争点の中心となったのが「DNA鑑定」と言うところで共通している。冒頭にも書いたとおり、足利事件は無期懲役となったが一転して無罪となった一方で、飯塚事件は未だ再審請求がかけられており、また冤罪をかけられた人物は2008年に死刑執行され、帰らぬ人となった。

そもそもなぜ死刑を含めた冤罪事件が起こるのか、それにもいくつか理由がある。

・警察や検察が早急に事件を解決しようとする
・裁判所の信用

もちろんこれだけに限らないのだが、本書で取り上げている事件のあらましを見るに、上記の理由がどうしても外せない。ただ現在では取り調べも可視化の動きが出てきており、裁判でも「疑わしきは罰せず」の動きも出てき始めている。とはいえまだまだ警察・検察・裁判ともに冤罪に対する関心はあるかどうか不明である。とはいえ、本書のように冤罪事件を数多く取り上げ、声を上げ続けることによって、国家に声が届き、冤罪を少なくしていくような仕組みを作ることも必要である。