ジョン万次郎に学ぶ 日本人の強さ

ジョン万次郎、本名中濱万次郎は幕末における開国に関して欠かすことのできない自分物の一人として挙げられる。しかし第1章でも語られるように万次郎は、元々は漁師の息子だった。その万次郎がなぜ漂流し、アメリカへ渡り、そして開国の役割の一端を担ったのか、そのことについて取り上げている。

第1章「出漁そして漂流」
冒頭にも述べたように万次郎は現在でいう所の高知県で漁師の子として生まれた。当初万次郎は父の漁師の仕事を継ぐ予定だった。もちろん、万次郎もそうすべく父の漁の手伝いをしていた。しかし父の死により継がざるを得なくなってしまった。当時は7歳の時である。そしてある時の漁にて暴風雨に巻き込まれ、遭難することとなった。その後無人島のサバイバル生活の中で死と隣り合わせとなることが幾度も起こった。

第2章「アメリカへ」
そうして言った中である出会いがあった。それはあるアメリカの捕鯨船との出会いだった。その捕鯨船の中の船員と、万次郎らとの出会い、そしてどのようなやり取りがあったのかを詳しく綴られている。その捕鯨船の中での生活でジョン万次郎の名前の源となる「ジョン・マン」と呼ばれるようになった。やがてアメリカへと渡り、日本人として初めてとなる留学生となり、アメリカの教育や文化を触れるようになった。

第3章「日本への思い」
捕鯨船、そして留学生としての生活の中で英語を身につけ、日本とは違った文化を触れながら、アメリカで捕鯨船員としても活躍した。そうしていくうちに万次郎は日本への思いがドンドン募っていった。そして日本への帰国を宣言した。そして帰国に向けて動き出そうとしたのだが、アメリカにおける日本の評判が悪化してしまった。その理由としては日本における「鎖国政策」によるものだった。

第4章「夢ではないのだ、母との再会」
そのような逆風もあったのだが、万次郎は周囲の協力も得て、日本に帰国することができた。どこに帰国できたのかと言うと琉球の浜辺だった。しかし役人に通報され、薩摩に身柄を引き渡された。とはいっても罪人として扱われず、心暖かく接してくれたのである。そして万次郎は薩摩藩の藩主と出会い、アメリカの事情などを明かした後、長崎に引き渡されたのだが、そこでも過酷な尋問が行われ、後に土佐へと渡り、同じような尋問を受けるようになった。そののちにようやく故郷へ帰ることができ、母との再会を果たした。

第5章「日本開国」
万次郎は母との再開後、まさに「幕末」と呼ばれる激動の時代の渦中に入ることとなった。きっかけは1853年のペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航したことだった。それから万次郎は幕府に呼び出され、アメリカの事情を説明するなど奔走した。そうして「日米和親条約」「日米修好通商条約」といった条約が締結され、開国されたのだが、そのこともあり、尊王攘夷派などから命を狙われるようになった。実際に2度暴漢に襲われたが、いずれも周囲の支えなどもあって難を逃れたという。

第6章「日本の夜明け」
欧米列強を恐れ始めた幕府は、英語・航海術など様々な技術を得ていた万次郎を軍艦教授所の教授に任命した。簡単に言えば、海の軍人を育てる機関で軍人の育成を手伝ってほしいという任務を命じたのである。とはいえ万次郎は軍人ではないのだが、航海術や測量術、英語などの力を幕府は買い、それを教えるのが主だった。また、日本初の潜水艦の艦長に任命されたり、咸臨丸の船長として辣腕を振るったりすることもあった。その中で勝海舟との出会いなども本章にて取り上げられている。

第7章「新時代への序章」
そして時代は1860年代に入り、倒幕の色合いが濃くなり始めた。その中で生麦事件などが起こり、日本と欧米との関係が微妙になった中で、万次郎の周囲には様々なことが起こった。外国人犯罪者の拿捕やかつてアメリカで出会った仲間との再会もあった。その中で大政奉還などが行われ江戸時代が終わり、明治時代が到来した。

第8章「万次郎の夢」
万次郎の夢とは何か、そしてそれは誰に受け継がれていったのか。まず前者は家族のこと、そして国家としてそれぞれが存在した。そして誰が受け継がれていったのか、万次郎の子どもたちもを中心に様々な人物によって受け継がれていった。そして1871年11月12日、万次郎は帰らぬ人となった。

第9章「新しい時代へ」
万次郎は没後、正五位が送られ、アメリカでも「初代駐日大使に等しい」と称賛された。万次郎が築いた轍は現在も日米問わず、称賛され続け、そして受け継がれている。

本書の著者は万次郎の曾孫であり、親族とともに万次郎の生涯などを伝えている人である。その著者がジョン万次郎こと中濱万次郎の生涯がどのように映ったのか、そこには日本人の「強さ」があったのだが、それが「志」という意味合いの強さがあったと言える。