愛と暴力の戦後とその後

「愛と暴力」という言葉を聞くと後者は戦後の一時代の中で出てきた産物としても挙げられる。しかし「愛」はどこにあるのかというとなかなか難しい。そもそもその両者の言葉には戦後の歴史を紐解いてみると関連付けられるものがある。その関連付けるものはどのようなものか、本書はそのことを論じている。

第1章「母と沈黙と私」
親子愛はどこにでもあるのだが、その「愛」の形は国それぞれである。そのそれぞれであるそのそれぞれである形はどのような歴史をたどっていったのか、その歴史について取り上げている。

第2章「日本語はどこまで私たちのものか」
日本語は日本人のものだろうと思わず本章のタイトルを見て思ってしまったのだが、そもそも日本語ができた歴史には諸外国の影響はある。例えば漢字は中国大陸から取り入れられ、外来語やカタカナは英語圏など様々な国から取り入れられた。もちろん日本独自で生まれ、育ったものもある。

第3章「消えた空き地とガキ大将」
ガキ大将といえばドラえもんのジャイアンがどうしても頭に浮かぶ。しかしながらそういったガキ大将の存在は時代とともに廃れていっている。もっとも空き地があり、そこを公園代わりに遊ぶという文化も時代とともに無くなっている。

第4章「安保闘争とは何だったのか」
安保闘争は一昨年にもSEALDsを中心としたデモ運動もあったのだが、その比にならないほどの闘争が60年代でおこった。日本の戦後史としても代表的な「60年安保」である。それから70年代に入っても安保法の改正でデモが起こった「70年安保」がある。

第5章「1980年の断絶」
1980年代に入ると、昭和の後半にあたるような出来事が起こるようになった。それは社会的な出来事だけでなく、文化的な変化もあった。その文化的な変化の中で漫才やアニメ、さらにはドラマといった変化を取り上げている。

第6章「オウムはなぜ語りにくいか」
オウムにまつわる一連の事件といえば90年代の中盤を象徴づけるものとして挙げられる。その挙げられる中でオウムはあなぜ総括という面から論じられていないのか、そして言論の場で「語りにくい」とされている理由とは何かを取り上げている。

第7章「この国を覆う閉塞感の正体」
時代とともに日本は閉塞感に覆われてきている。その覆われている正体とは何か、それは日本人そのものの変化というよりも、日本の社会そのものにあるのかもしれない。

第8章「憲法を考える補助線」
私自身は憲法改正派であるのだが、それ以前に憲法とは何か、そしてどのようにしていくか護憲・改憲問わずに論じる「論憲」を行うべきと考えている。その論憲をしていくにあたり、どのような要素が必要になるのか、そのことを取り上げている。

戦後の時代も様々な意味で激動であった。その激動の時代の中でどのような愛や暴力が出てきたのか、それを「考える」一つのきっかけとなる。