テロルと映画 – スペクタクルとしての暴力

「テロ」は今も昔もあるのだが、その「テロ」を題材とした作品も映画・音楽・ドラマをはじめ、ありとあらゆる分野で取り上げられている。もっとも映画も数多くあるのだが、「テロ」を通じてどのような表現を醸成しているのか、そして「テロ」についてどのように訴えているのか、様々な題材とともに取り上げている。

第1章「暴力のスペクタクル―メディアのなかのテロル」
暴力による「テロ」はニュースでも数多く取り上げられているのだが、中でも印象的ないがとして1972年に公開された「黒い九月」をはじめとした作品とともに犯罪や暴力における「テロ」を論じている。

第2章「他者の脅威―勧善懲悪を超えて」
映画で取り上げる「テロ」は単純な犯罪行為と一緒くたにすることができない。映画によっても正義の味方として「テロ」を行い、ヒーローとして賞賛の的となることがあるという。

第3章「テロリストの内面―自己顕示欲と実存」
しかしテロは、様々なエゴイズムでもって行われることがあったという。もっともテロを行うことについても映画にてあぶりだしていることがあるという。

第4章「ブニュエルの悲嘆―爆弾の遍在」
爆弾を取り上げるテロもニュースでは多く取り上げられている。もっともルイス・ブニュエルが生み出した作品にはその「爆弾」の印象が強く残っている。

第5章「若松孝二の怒り―少年の孤独」
「実録 あさま山荘事件」など様々な作品を世に送り出した若松孝二氏は逝去して5年の月日を迎えることとなった。その若松孝二氏は「反骨」の塊となり、数多くの「テロ」の映画を生み出した。もっともその「テロ」を生み出すことによって「ピンク映画の帝王」の異名を取ったのかもしれない。

第6章「ファスビンダーの嘲笑―管理社会における不毛な演技」
ファスビンダーの映画は「管理社会」を風刺した作品であるのだが、その管理社会の風刺した作品の中でファスビンダーの作品ではどのようにして嘲笑を誘ったのか、その論理を分析している。

第7章「ベロッキオと夢の論理」
マルコ・ベロッキオの作品の中には「赤」と称するものが多くある。もっとも「テロ」=「赤」というイメージを見出すこともあるのだが、それを印象付けさせる時代として1968年前後の時代がある。日本でも新左翼勢力がデモを起こしたり大学紛争を起こしたり、海外でも共産党や社会主義と呼ばれる「赤」の勢力が猛威を振るったりすることがあった。そのことが風刺映画として取り上げられることがあった。

映画は時代背景とともに、手法や公開映画が様々である。その様々な手法のなかで「テロ」をいかにして取り上げてきたのかがよくわかる。