享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」

享徳の乱(きょうとくのらん)は1455年~1483年と長きにわたって起こった戦いであり、「三十年戦争」とも呼ばれた。もっとも室町時代の中期にあたり、応仁の乱が起こった時と同時期であり、戦国大名が出始めた時期とほぼ似ている。そのため「戦国時代到来の遠因」とまで言われるようになった。

そもそも享徳の乱はなぜ起こったのか、そしてなぜ30年にわたって続いたのか、そのことについて取り上げている。

第一章「管領誅殺」
室町時代における幕府は天皇のお膝元であった京都の「室町(京都市の室町通にあたる)」この享徳の乱が発生するまでは安定期であり、南北朝時代における激しい対立が収まったのを機に、足利氏の政治的にも絶対的な地位を保っていた。しかしその安定期の中ではある「くすぶり」があった。それが「足利」の姓を持ったのが京都の室町ばかりでなく、鎌倉にもいた。その対立がいったん爆発したのが1438年に起こった「永享の乱(えいきょうのらん)」である。いったんは収まったものの鎌倉の足利氏が鎌倉府の再興を虎視眈々と狙った。その人物こそ足利成氏(あしかが しげうじ)である。

第二章「利根川を境に」
幕府は成氏の討伐を決定したことにより長きにわたる「享徳の乱」が起こった。しかしその享徳の乱は足利氏と当時の関東管領であった上杉氏との諍いだった。その諍いの間に利根川がはさんでおり、そこに第8代将軍であった足利義政を率いた幕府もいた。

第三章「応仁・文明の乱と関東」
その戦いの中で戦国時代を到来する大きな乱が起こった。それが「応仁の乱(起こった元号的に「応仁・文明の乱」とも呼ばれる)」である。1467年にて京都で起こった内乱であり、当時の将軍であった義政の後継問題が激しい対立を起こし、東幕府と西幕府に分かれていったことである。結果的に和睦で終息したのだが、この内乱によって幕府の権威は失墜することとなったのだが、並行して起こっていた享徳の乱も併せて起こっただけに、幕府の権威が低下したことも挙げられている。

第四章「都鄙合体」
「都鄙(とひ)」は都と田舎のことを表し、今で言う所の首都圏と地方の関係がそう表している。本章で言うところの「都鄙」とは幕府のある室町と鎌倉との和睦のことを表している。長年にわたる対立の背景には両軍ともに行き詰まりを感じていたことに他ならない。

応仁の乱が歴史的にも有名であるのだがその裏には享徳の乱が起こっていた。もちろんその内乱が長期化したこともまた室町時代を瓦解するきっかけの一つだったとも言える。30年もの内乱にはどのようなきっかけがあり、経緯があったのか、その知られざる要因が本書で見えてくる。