人が人を裁くということ

人が人を裁くというと裁判であるのだが、今となっては規模は違えど裁判所によって行われる。しかし歴史の中には私設裁判のように勝手に裁判となり、被告が刑罰を受けると言ったことがある。もっとも「裁く」歴史は文明の歴史と同じようなものがある。

話は変わり、その裁判の歴史の中で一つのターニングポイントとなったのが2009年に施行された裁判員制度がある。その裁判員制度は市民が被告を裁くと言った事であるのだが、今となっては存在定義は議論の的となっている。裁判員制度はどのような制度なのか、現時点でどのような問題などがあるのか、そもそも裁判はなぜ必要なのかを取り上げている。

第Ⅰ部「裁判員制度をめぐる誤解」
2009年から行われている裁判員制度は「市民優越の原則」と呼ばれる裁判制度の原則の一つからつくられたものであり、ドイツで参審員制度、さらにはアメリカの陪審員制度とともに日本でも行われるようになった。しかし取り上げられる事件は重大事件であり、裁判員となった市民のケアも大事なものとなってきている。しかし裁判員制度には誤解があるのだが、それは何なのかを論じている。

第Ⅱ部「秩序維持装置の解剖学」
裁判は「司法」と呼ばれ、法律を管理したり、解釈などを用いて裁く。法律を司っているからでこそ役割を担っている。しかしその法律を司るために様々な調書・証拠などが採用されるのだが、その中でも刑事罰における自白はどのような効力を持つのか、取り調べの中でウソ発見器が必要なのかも含めて取り上げている。

第Ⅲ部「原罪としての裁き」
これは法律違反と言うよりも宗教における定義も含まれているのかも知れない。元々キリスト教やユダヤ教には生まれたから罪があると呼ばれる原罪があり、それを救うためには宗教に従うと言うようなことを挙げている。本書ではあくまで宗教ではなく、司法的な意味で「原罪」があるとするならば、どのように裁くべきかを議論している。

人を裁く機関は日本全国に存在するのだが、そこでは今日でも多かれ少なかれ裁判が行われている。もちろんその裁判には民事・刑事があるのだが、本書で議論しているのはあくまで「刑事」であり、人を裁くことを中心としている。なぜそれが必要なのか、司法や法律というよりも役割を中心にして取り上げている。