国語教科書の闇

日本語教育の根幹として「国語教育」が挙げられる。国語教育に使われる教科書には様々な作品が収録されているのだが、収録されている作品にはありとあらゆる「闇」というものが存在する。その作品の中身は平易なものだが、それがなぜ収録されたのだろうか、その闇を本書にて追っている。

第一章「定食化する国語教科書」
「定食」という言葉は全くといっても良いほど含蓄のいくものである。小中高と様々な出版社の教科書が世に出回っているのだが、いずれも「横並び」のように同じ作品が取り上げられている。その要因には小中高生に目を向けた暴力やセックスを省き、著者の遺族の絡みも存在することから「定食」という言葉のように、特定の作品が同じように収録されている状態にある。

第二章「「定番の王様」はいかにして誕生したか―「羅生門」」
最初は芥川龍之介の「羅生門」である。発表されたのは1915年で、芥川龍之介の代表作として有名である。その要因には黒澤明の同名映画もあるのだが、それ以上に影響を受けたのは教科書だった。
その「羅生門」が初めて国語教科書に登場したのは1950年の事であった。それ以前にも採用されそうになったのだが、落選という憂き目にあった。そこからなぜ掲載されたのか、短編小説として教科書にちょうど良い量であったことがあるのだが、物語の内容を含めて、わかりやすさと違った意図があったとも言える。

第三章「漱石も驚く一人勝ち―「こころ」」
次は夏目漱石の名作の一つである「こころ」である。こちらの作品1914年に発表されたのだが、そもそものタイトルは「心―先生の遺書」というものだった。それが長編になることにより、単行本化されたときには「こころ」となった。
その「こころ」で抜粋される物は「上」が多い。その理由としては採用されるきっかけとなった「あらすじ」の存在である。

第四章「鴎外の影が薄くても生き残る―「舞姫」」
森鴎外の小説も取り上げられることがあるのだが、代表作として「舞姫」が挙げられるが、こちらも国語教科書の定番として扱われている。その要因として「自我の覚醒と挫折」と言ったものが挙げられている。

第五章「定番小説はなぜ「定番」になったのか」
定番作品と呼ばれるものは、道徳教育との深い関わりがある。作品で作られる要素は、作者の想像もあるのだが、その想像は人間関係や社会に対する視点もある。さらに人間性にも深く関わっているため、小説作品にはどうしても「エゴイズム」が生まれる。
本章では定番作品の「共通項」を取り上げているが、大きな点としては「戦前の掲載が無い(p.110より)」が挙げられる。

第六章「定番小説は教科書にふさわしいのか」
「定番」と言っても、メジャーな教科書を出版する出版社も少ないが、取り上げる本はいつも「こころ」「舞姫」「山月記」などが多い。それがなぜ「ふさわしい」のか、ある種の都市伝説もあると著者は指摘しているが、「暗い」という部分で共通点が存在しているという。

本書の最後にこう締めくくっている。

「日本はこれまで、「教科書問題」と言えば「歴史」教科書問題のことで、国語教科書の教材が社会的な話題になることは少なかった。唯一記憶にあるのは、かつて中学校の教科書から「漱石・鴎外が消える」と騒ぎになり、その後「漱石・鴎外が復活へ」というニュースが流れた事である。今度は「漱石・鴎外が交換に」という話題が社会の関心を呼んで欲しい」(p.182より)

教科書問題というと、「歴史教科書問題」を連想するが、日本人のアイデンティティの教育は歴史に限らない。日本文学そのものを携わる国語教育も一端を担っている。「国語教科書問題」は戦後間もないときから長きにわたって、メディアではあまり知られていないところで問われてきたのだが、本書のように陽の目を見ることはあまりなかった。日本人のアイデンティティを知る、その上で本書を通じて問われなくてはならないのが「国語」のあり方ではなかろうか。