性表現規制の限界

1999年に制定された「児童ポルノ法(通称:児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律)」、2004年に改正されているが、単純所持禁止は盛り込まれてはいない。その単純禁止についてはアニメ・漫画・ゲームも盛り込むべきだという人もおり、単純所持禁止の意義が問われている。

そこで本書である。本書は表題のとおり性表現規制の限界をアメリカ・日本の判例を交えながら言及している。

アメリカの判例で非常に興味深かったのはGinzburg判決とMirror判決である。簡単に言えばGinzburg判決はアダルト産業にかかわる規制を容認した画期的な判決であったこと、Mirror判決ではわいせつ概念の補完的役割を果たしたことである。

日本では刑法によりわいせつなものは禁じられており、罰則も付いている。この判例については1957年の「チャタレー夫人の恋人」事件が非常に有名であろう。争点の詳細については本書を読んでいただきたいのだが判決から言うと最高裁で有罪が確定した。つまり翻訳において性的な表現が現れたことについてわいせつと認めたということである。しかしこれは学説において批判的であった。解釈の世界によるものであるからそこにどこがわいせつであり、どこがわいせつではなかったのかというのが人によって分かれるというのである。

これは現在論議されている児童ポルノ法の改正の争点とよく似ている(というより同じかもしれない)。ちなみに性表現規制の定義が明確化できていない点として、

「歴史・文化により性表現に対する評価が異なるうえに、人によって性に対する感覚が異なり、わいせつか否かの判断が分かれることに起因する」(p.80より)

と述べている。人それぞれであるからでこそ児童ポルノ法も、チャタレー夫人の判例も意見が二分してしまうことになる。

性表現に関しては非常に昔から世界各地で法律での明文化や判例が出てきてはいるものの、それは書物や映画など限られたコンテンツであった。しかし昨今の世の中インターネットなどの技術革新により性表現が昔以上に増えたというところは否定できない。当然今では性表現が用いているものは割と手軽に手に入れることができるというのも事実である。

児童ポルノ法については規制の強化自体は技術革新や表現の多様化の観点からすべきことかもしれないが、ゆるやかにやるべきだと私は考える。まず規制をかけるとするならば、コンビニでは売らずにそういった専門店だけに売るべきである。そうなれば性表現=悪というのは若干収まると考える。そしてアニメ・漫画・ゲームのポルノ法規制はするべきではない。

過去にそういうことによる影響で殺人や強姦など起こった例は全くない。ではいくつかの女児殺害事件についてはどうかといわれるが、上記の理由にあたることはなく、むしろそれをコントロールできなかった自己責任によるものではなかろうか。そして「世界の潮流による」という理由での規制だがこれこそ間違っている。確かに欧州各地では単純所持禁止がなされているがデンマークだけは許可制によって容認している。そういうところも加味するべきではなかろうか。