日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

表題からして何やら不思議な感じがしてならない。1965年を境に日本人は「キツネにだまされた」ということを口にしなくなったという。それを歴史学、歴史哲学的観点から考察していこうというのが本書である。

そもそも思ってみれば不思議な話である。昔は「キツネにだまされた(化かされた)」という話や「狸に化かされた」という声があった。私は口にしなくなっただいぶ後に生まれたのでそういう話を聞くということはまずない。キツネと言うと歴史学と言うよりもなぜか神道的要素があるようにも思えてしまう。

というのは稲荷神社が全国津々浦々にあり、キツネは神と言うよりも神獣として崇められているところもあるという。キツネはいたずら好きであることから「キツネにだまされた」という話を聞いたのではないだろうかと推測する。しかし1965年を境に言われなくなったと考えると本書の内容を迫りたくなってくる。

さて本書である。第1章はキツネと人なのであるが前述に書かれていることと似通っているので割愛させていただく。第2章からが本論になる。第2章では1965年のことについて詳細に書かれる。その中でキツネにだまされたということを口にしなくなったカギが隠されているかも知れないと推測する。1965年と言えば池田内閣の所得倍増政策により人々の生活が豊かになったこと、科学が進歩したこと、死生観・自然観の変化によりだまされなくなったのではないかと著者は仮設を立てて説明している。

豊かになったことにより、宗教や迷信にかかわる必要がなくなったというかもしれないが、確かにうなずける1つの理由がある。もともと宗教というのは「貧・病・争」から脱するためにすがりつき、自らの死生観や自然観を見出すということからできたものかも知れない。では国全体が豊かになるから宗教はいらないのかと考えると必ずと言ってもそうではないと断言していい。

アメリカではプロテスタント中心であるので豊かになっても宗教は存在している。では日本はどうだろうかというと、日本は多宗教国家である。それはもともと神道に限らず日本自体「神」という概念はそのまま自然にかつ寛容的に息づいているので神は1人ではないというのが日本の宗教的風潮ではないか。そもそも宗教的観念をそこまで問い詰めないのも日本くらいではなかろうか。しかしこれらの仮説だけでは著者同様まだ釈然としない。

第3章ではキツネにだまされる能力と題してそのルーツを探っている。さすがにここまで来ると歴史と言うよりも民俗学の範疇になってしまう。ただそこまでいくほどこのなぞというのは根深いものであることの証明にはなるであろう。

第4章は歴史に関する「問い」についての考察である。ここはキツネとのかかわりはほとんどない。むしろ歴史の概念に対する「問い」であるのでこれについては割愛するしかない。

第5章ではようやく歴史哲学が絡んでくる。さすがにここまで来ると私も読んでもさっぱりこなかった。

第6章でようやく結論が出てくる。決定な結論ではないかもしれないが

「知性によってとらえられた歴史だけが肥大した。広大な歴史が見えない歴史になっていった」(p.173より)

が本書の結論点に思える。普通にある歴史的な観点ではとらえきれないということではないだろうか。そうなるとまだまだ観点を広げていかないと結論に達することができない。本書を読んでそう思えた。