ネットいじめ

このところウェブは飛躍的に進化している。最近ではウェブ2.0というものが当たり前のように使われている。しかしその裏には様々な弊害が起こっている。「闇サイト」によるネットいじめもその1つである。そのことによりウェブを「悪」と捉える論者も少なくない。規制をしたらどうかという論者もいるほどだ。

しかし著者の綿密な分析によると学校裏サイトはこうした人間関係の延長線上にあり、使う人間の問題であるとしている。それだけではなく職場でもそのネットいじめというのが明らかになっている。要するに若者の「空気」という絶対権力にすがりつき、逆らえば弾圧するような風潮があるという。

第1章は「学校裏サイト」への不安について。近年のパソコン及び携帯電話の使用率をみると若者・中年世代が多いのが顕著であった。簡単にいえば若者たちはパソコンや携帯電話を持って当たり前という世代である。その中で技術が進歩し、サイトも楽に作ることができる。学校裏サイトが乱発したという。

しかし学校裏サイトというと陰湿なイメージがあるので以降は「勝手サイト」と名付ける。後半には学校裏サイトから子供たちを守れという風潮について書かれている。目についたのがノンフィクション作家の柳田邦男氏がこの携帯電話やパソコンによる被害を「水俣病」にたとえたことである(p.25より)。

産業の発達についても酷評しているが、では柳田氏は産業を止めたほうが子供たちのためになるのだろうか。いじめの原因はすべてそういった技術のせいなのか。それを使った若者は馬鹿なのか。というのを改めて質したく思えてならない。実際に論者だけでなく新聞や雑誌でも槍玉に挙げている。また「金八先生」でも槍玉に挙げているくらいである。

第2章では勝手サイトの真実について迫っている。前半は学校勝手サイトの定義と認知度についてであるが、知っている人は多かったものの使っている人はそれほど多くなかったことも、そして知ったきっかけが友達経由が多かったというところも興味深い。つまりネットを介してわざわざ友達と会わなくても話しすることができる、もしくは情報を共有することができるという観点から紹介しているのではないかと私なりに推測する。

中盤では勝手サイトの分類法と荒れるサイトは何なのかについて書かれている。これはほとんどの文献や新聞で書かれていなかったのでこれは参考になる。後半は第1章に書いていた風潮の裏側について書かれている。簡単にいえば子どもの自由よりも大人たちの安心が大事であると断罪している。しかし著者はネット自体を擁護をするつもりはなく、あくまで裏サイトをはじめとした「真実」を知ったうえで助言をするということで本書を上梓している。

第3章は蔭口のパターンについて書かれているが、まずは最近起こっているいじめはネットのせいなのかというところから疑問を諸説ごとに批判している。著者は章題に書かれているように蔭口が形となって表れたと主張している。私はそれについてその通りであると考える。とはいえ形になって表れているものであれば、たとえば紙切れに蔭口を書いたメモで友達に回しながら見るということもそのうちの1つで、それがネット上に拡大したというのではなかろうか。

それに最後に書いてあるが「ネットを使うな」というのがいじめを助長すると主張している。いじめを防止するために本書は4つ提言しているが果たしてこれが本当に防止になるのかというのは疑問に思う。まずやってみることから始めるしかないだろう。

第4章は終りなき戦争についてである。最近の若者たちは「キャラ」を大事にする。そこから「プロフ」文化から「オタク」文化、そして「いじり」文化について言及を行いながら現在の若者論について論じている。様々な観点から若者論を一言で語ることはできないものの、その「一言で語ることはできないこと」をほぼすべて書かれているところは著者への畏敬の念を禁じ得ない。「若者」を論じるためには「若者」を知らなくてはいけない。孫子の兵法のようにコメンテーターはこのことを肝に銘じておくべきである。

第5章はウェブ・コミュニケーションの未来についてである。「ウェブ社会」の意味からフィルタリングの効用性及び有害メディア論について書かれているが有害メディア論はテレビの誕生からずっと有害性について論じており、新しいメディアが出るたびにバッシングは必ず起きている。

政治では新しい首相が出る度頭ごなしにバッシングするメディアとまるで同じである。でもバッシングをするメディアもメディアである。それについて何か利益になるのかと問いたい。むしろそれを悪と捉えて私たちが正義だという自己陶酔に浸っているようにしか思えないのは私だけだろうか。

裏サイトを用いて相手への誹謗中傷は当然許せない。しかしそれを行うことでネットへの俗物論に陥ることこそ横暴ではなかろうか。