これも経済学だ!

一言で経済学というと市場の動向やその理論に基づかれている。そう考えると金銭などの需要と供給、株式市場や為替市場、生活にかかわっていくとすれば購買行動が経済学に大きくかかわってくる。というよりはそれしかかかわってこないのだろうかさえ考えてしまう。

しかし本書を読んでそういった固定観念が崩れ去るような感じがした。まず本書でかかわっている経済はなんと宗教と伝統芸能である。伝統芸能は栄枯盛衰でありその技術は進化や退化をしながら続いている。それも経済学にかかわるという。落語もその競争原理の1つであり、かつ将棋界もその範疇にはいるという。

将棋界と言えば本書でも取り上げられているが参入障壁が非常に厳しいとして知られている。その障壁に風穴を開けたのが現在四段である瀬川晶司氏である。瀬川氏と言えば奨励会でプロ棋士にはなれなかったもののアマチュア界で活躍し、プロ棋戦においても高勝率をマークして(故・花村元司九段以来)編入試験で将棋界に入った。

これにより編入試験がいくつか行われ三段リーグに編入した人もいる。そう考えると障壁は少しずつ緩和されているように思える。

宗教に関しては宗教的サービス、そして寺の新規参入の所を表している。宗教というと市場原理や競争原理とははるかに遠い位置にいるように思えるが決してそうに思えない。というのは創価学会や立正佼成会をはじめとした新興宗教の存在がある。会員を増やすための競争によって競争原理が成り立つと考えると宗教の世界でも経済原理が成り立つ。それが成り立つというのは「貧・病・争」が如実に表れるからでこそである。

その中でも「貧」が大きく表れることにより宗教への依存も強まる。さて「貧」というと格差社会がピンと表れるが第4章でそれについて言及している。著者は格差、「弱者」はこの世に存在しないと言い放っている。弱者というのは経済的な困窮による弱者であるが、その弱者というのはどのようにつくられどのように定義されたのかという疑いが本書に表れている。

弱者は生まれながらにしてできるものではなく、搾取や評価によってつくられ、レッテルを貼られる。一賢差別しているようには見えないけれども、見えないところで差別している世の中。弱者の叫びによりそれに擦り寄る人々。そう考えると今日の格差問題というのはつくられたものとしての認識なのだろうか、では一体誰がつくったのかという話になってくる。それに対しての保護を訴える人もいれば、自己責任として切り捨てる人もいる。

その問題は自己責任なのか他己責任なのか分からなくなる。さらにいえば人間は必ずしも平等ではないという哲学者もいる。そうなると弱者というのはいて当たり前となってしまう。完全平等はむしろ不自然である。哲学、経済学的にそれが成り立つというならば平等の世界はないのではないだろうか。と考えるがきりがないのでここでやめておく。

本書のあとがきに面白い文言を見つけた。

「現代の若者を中心にみられる論理的思考能力の欠如は、数学教育の貧困さに原因があるというひとたちがある。」(p.226より)

論理的思考というと国語ではないだろうかという人もいるが、論理的思考の本来は数学である。「論理数学」があるくらいである。数学の証明問題がその最たるものであるが、悲しきかなその論理数学を敬遠する人が多いというのも事実(それだけではなく、数学全体を嫌っている人も増えている)。昨今の科学・数学離れというのはこういうところに暗い影を落としていることも肝に銘じなければならない(当然、論理数学の苦手な私自身もである)。