文明としての教育

文明とともに教育あり。本書はそのことが書かれている。本書の右おり部分には

「国語教育こそ「愛国教育」である」

と書かれている。まさにその通りである。国語というのは日本の文学を触れながらそのときの時代背景や評論に関して理解を深めるための科目である。それとともにその作品について討論や作文を通して批評していくのも国語教育の根幹の1つである。しかし今の国語教育は果たして文学の楽しさを教えているのだろうかというところが疑わしい。

自分自身の体験では小学校は討論や作文が頻繁に行われていたため今考えると非常に有意義であったし、今討論力や文章力に欠けがちの日本人にとってこういう教育こそ必要なのではないかと思う。そういう考えから小学校の時の先生には非常に感謝している。それはさておき、中学校と高校の授業はそういった討論や作文に関することはほとんどなく、作品に関する読解や考察ばかりで作品の楽しさ以前に読解力先行の教育であったように思えてならない。

さらに古典も子分を現代文に訳せという問題や宿題が課されていたためかあまり楽しめなかった。実際文学作品や古典に関して本当に楽しいと思ったのは大学に入ってからの話である。その時はテストの概念もなくただただ古典を読んでどう思ったのかというのを感じ取れた。実際大学4年になってからはそれを記憶をとどめるために書評を始めたくらいであるから、今は活字に対してなんら抵抗もなく、むしろ依存症や中毒のようになったのは言うまでもない。

本書は東西の教育史を検証しながら文明と教育のかかわりについて考察するとともに日本本来の教育とは何なのかを解き明かしていくという1冊である。

まず第2章はソクラテスとプラトンについて書かれていたがまずソクラテスによる理想の教育とはこう主張している(p.31より)

「教育とは人びとに無知であることを自覚させる援助だ」

まさに「無知の知」を植えつけるための教育としている。そのうえで本当の教養とは一体何なのかを身につけるのが本来の教育者の役割だとソクラテスは主張している。要するに固定観念を捨て何もない真っ白な状態にさせて知力を身につける。ソクラテスは対話によってそれを行ってきたのである。

そしてそのソクラテスの弟子であるプラトンは「読むこと・書くこと・算術」が教育のもっとも基礎となる教科と定義している。しかしよく見ていただきたいのがこの3つである。実は日本でも「読み・書き・そろばん」というのを聞いたことのある人もいるが、そのルーツがまさかギリシャにあるとは私でさえも思わなかった。

第5章では日本の教育の歴史についてであるが、ここでは鎌倉・室町から江戸時代にかけての教育についてである。まず安土桃山時代にはキリシタンの宣教師が日本に上陸したときに日本の好奇心の強さ、知的水準の高さ、それよりもかなり論理的であったことに驚いたという。日本人は論理力がないということを歴史的に語る人もいるがこれを聞いたらおそらくその論理も崩壊するのではないかと思った。

さらにキリスト教は日本人はそれほど伝来していなかったのは言うまでもなかったがこれは神の在り方について日本人と西洋人との差異があったのだろう。そしてもう一つは日本人には「反知性主義」がないところにある。「反知性主義」とは宗教や財政・階級的なことによっての対立からそこから知性を得ることを嫌う考えである。しかし日本は全くないわけではなかった。1960年代に起こった安保闘争と授業料の値上げで起こった大学紛争ではこのことが起こったのではないだろうか。

第7章では教育の在り方についてである。昨今では「ゆとり教育」や「詰め込み教育」と叫ばれているがではこれが本当の教育であるのかというところが疑わしくなる。本書ではサービスとしての教育なのか、国家政策としての教育なのかの定義であるが、私が目についたのはむしろ教育とは選ぶものなのか、強制されるものなのかという所である。しつけは学校で行うモノと言ったいかにも的外れ、もしくは無責任な親が増えているが、もともとしつけは親など家庭や地域ぐるみで行わなければならない。そしてその礼儀作法などを学ぶのは決して学校だけではなく自ら動いて部活や塾に参加し、身につけるということが本当のしつけや礼儀を身につける家庭教育ではなかろうか。

そして最後は第8章「国語、道徳、歴史」である。歴史というと教科書問題が話題となっており、事あるごとに韓国や中国の抗議を行うが、それに屈してはいけない。歴史や国語というのは日本が育ててきた伝統をそのまま学ぶわけである。それが外国の軋轢により変わってしまえばそれだけ日本人としてのアイデンティティが失われることになる。最も最初に書いてあった「国語教育こそ「愛国教育」である」はそこから根源になっている。国語も歴史も思想教育には違いない。真の日本人となる教育だからでこそ国語や歴史が存在するのだから。