ネット時代10年後、新聞とテレビはこうなる

インターネットが急速に普及しだしてすでに10年以上経つ。インターネットが急速に普及し、進化するとともに新聞の販売部数は減少し続け「新聞離れ」という現象が起き、テレビも視聴率が伸び悩み「テレビ離れ」を引き起こした。その中でインターネットは独自の強さを発揮しながら急激にアクセス数を伸ばしている。いつかテレビや新聞がインターネットに呑みこまれてしまうと危惧する人まで出てきた。本書はそういったメディアの変遷と今後の見通しについて書かれている。

まず第1部は「過去形としてのメディア」として新聞・テレビの「既存メディア」とインターネットとの違いと、新聞離れ・テレビ離れについて書かれている。まず飛び込んでくるのが「ある意味」大人気の朝日新聞である。実は朝日新聞は当初「官報」として出版していたそうだ。実際私もそこまでは知らなかったが、政治と大きくかかわっていただけに、政府に対しての悪口もうまいと言ったところ(しかも露骨)。

さらにはほかの新聞氏への攻撃もなかなかなところが大人気になった模様。皮肉と悪口はここまでにしておいて、新聞やテレビの報道による記者クラブ等による報道の画一化によりメディアの独自性というのは国民にあまりよくわからなくなってしまった。

もっと言うと在京キー局の政治的、経済的な過度の干渉によって内容自体がチープなものになってしまっている。しかも一方向となっていることによって違った情報を見たいという人は同じ情報しか見ることができないためどの新聞を読んでも同じようなことに陥っている。結局「新聞離れ」はインターネットによるものだけではなく上記の理由がその一因であるが未だにその反省はないようである。

「テレビ離れ」は起こっているがこれは若年層を中心に発生しているが逆に年配の層ではテレビを見る機会が多くなっていることである。そのことの差し引きによって「テレビ離れ」は進んでいないというところであろう。しかし地デジが進むにつれてどんどんテレビが減るだろうと思うかもしれないが、今度はワンセグが普及しだすことによって気軽にテレビを見ることができるため「テレビ離れ」は起こらないのではないのかと考える。

第2部は「現在進行形のメディア」としてインターネットによって起こったメディアの変化と地デジによる影響である。ここでは現在起こっている新聞がインターネットで行っていることからどのようにして展開していくのか、テレビのネット配信についてが書かれている。まず新聞であるが髪を媒介としない新聞ができるのではないのかと本書では推測する。

しかし新聞は新たな形としてデータで販売し、自らプリントアウトして新聞として読むという構想まで書かれている。新聞は絶えず進化する、もしくはしなくならないと思っているがこういう形での進化というのは非常に高いように思える。

ただし製紙業界と新聞業界による癒着が無ければの話であるが。続いてテレビのネット配信である。これは以前もこっぴどく言ったが有料によるネット配信を総合的に行えと主張した。2005年現在であるが本書で在京キー局文の配信状況はある程度わかった。

一応在京キー局はほとんど行っているようであるが、はたしてこれが浸透しているのだろうかという疑いは捨てきれない。むしろコンテンツはやっているがそれによるネット配信を行っているという宣伝が足りないのではないのかという考えさえする。

はたまたは「有料」であることによりユーザーは見向きもしないのだろうか。これに関してはまだまだ様子見といったところである。

第3部は「未来完了形としてのメディア」で2011年以後の地デジ一本化以降のメディアについて推測している。2011年以降テレビの保有台数は減るのではないのかという文献もあるが確かにその通りかもしれない。しかし前述のとおり携帯電話のワンセグが急速に普及していることから地デジの普及によるテレビ離れは起こらないといってもいい。

しかし「テレビのパソコン化」もしくは「パソコンのテレビ化」は起こるのはほぼ間違いないといってもいい。そう考えるとテレビとインターネットの生存競争はもうすでに始まっている。とは言ってもインターネットとテレビの融合というのは避けられない現実としてある。そしてその融合以後メディアはどのようになっているのかというと本著では「eプラットフォーム化」していると推測している。

情報が容易にとることができ、その中で双方向に流れるという。つまりインターネットを媒介とした19世紀イギリスのコーヒーハウスのような現象が起こるとしている。またこれによって広告の在り方も変わるが、おそらくGoogle化と言って間違いないのかもしれない。