日中戦争下の日本

日中戦争は1938年に開戦となったが、開戦当時は早急に終わると政府や軍も簡単に思ってしまっていた。しかし蒋介石率いる中国国民党はアメリカを始め欧州からの武器と資金の援助により泥沼化させ、最終的には勝利を収めた。ちなみにこの日中戦争までの道のりは国民の世論は開戦が大多数であった。しかし戦争が泥沼化し始めると政府の首脳陣への批判が後を絶たなかった。敗戦後はあたかも自分は平和主義者のように開戦をした人たちを白眼視し、戦勝国に媚びるようになった。日中戦争下の日本は国民党・共産党による満州へのテロが多発した。特に通洲事件により世論は激昂し、開戦派が大多数であった。もっと言うと日中戦争中の南京制圧では日本で提灯行列で祝ったという記録も残っている。日中戦争下の日本は開戦一色であったことは言うまでもない。

しかし政府はというと当時は近衛文麿内閣であった。大東亜戦争1年前には東条英機が陸相に就任した。軍部も開戦一食であったのは言うまでもないが、政府内では和平交渉や戦争回避にまつわる交渉を行っていた。しかし相手国はそれに消極的か、聞き入れてもらえなかった。とりわけ近衛政権はアメリカのフランクリン・ルーズヴェルトとの日米首脳会談に積極的に働きかけたが頓挫し政権を投げ出したという経緯がある。さらに言うと次の東条政権も、陸相時代は強硬な開戦論者であった東条英機が、天皇が「戦争を回避せよ」という御言葉で一転戦争回避に尽力したというのは有名な話である。数々の提案を行い極限まで譲歩をした結果、突きつけられたのは中国大陸撤退など到底飲めることのできない「ハル・ノート」であった。しかし妙なことに東条と犬猿の仲で知られていた石原莞爾(陸軍中将、満州事変における首謀者の一人)が戦争回避に向けての打開策はこの「ハル・ノート」と一致するものだった。歴史に「もし」はタブーではあるが、もし「ハル・ノート」を完全に飲んで中国から撤兵を行ったとしても、アメリカは日本を植民地化するというような最後通牒を突きつけ、日本側から戦争を起こさせる工作を行っただろう。というのはフランクリン・ルーズヴェルトが大統領になったときの公約で絶対に戦争を起こさないというのが第一に挙げられていた。そのためアメリカから戦争を起こすとなると戦争に協力する人が少なくなり、逆に敗戦してしまうと読んだのだろう。実際ルーズヴェルトは「戦争を行うためであれば何にでも嘘をつく」と発言している。

日中戦争のことについては今「田母上論文問題」が話題となっているが、日中戦争が侵略戦争であったというのは、両義的になる。確かに国際法上「侵略」であったことは確かである。しかし田母上論文について、田母上氏の言い分は分からないでもない。というのは自虐史観により戦前の歴史を暗黒化、全面否定化させるということはいかがなものかと思う。台湾に対しての統治は差別や少数民族の弾圧はあったものの、言語や通貨がバラバラ、アヘン戦争によって病原菌や麻薬等によって四害のひとつとされていた。統治によってインフラが整備され、「四害」と呼ばれていた衛生状態を奇跡的に改善したということで台湾でもそのことを評価する人が多かったということは忘れてはならない。戦前日本は諸外国に悪いことをしたのはあるが、反対に上記のことを含め、アジアによる欧米諸国の桎梏(植民地化による自由の束縛)からの開放を行ったという観点では誇るべきものではなかろうか。

日中戦争は悪い戦争だったのだろうか、戦前日本は西欧の植民地政策と同じことをやったのか。それは歴史書を読めばその答えは自ずと見えてくる。私自身もこういった歴史史観になったのは数多くの歴史書を読んだためであったことは間違いない。歴史を学ぶことは日本人としてのアイデンティティを学ぶこととイコールである。だからでこそ「田母上論文問題」で提起されたのはこのことではなかろうか。