闘う書評

本書は平成16年1月〜平成20年3月の「週刊新潮」で連載していた「闘う時評」より書評を中心にセレクトしたものである。

当ブログは書評を中心に投稿しているが、参考のために書評サイトのみならず新聞や雑誌の書評も読んでいる。今回はちょっと本格的な書評を読んでいこうと思う。

第一章「文学賞と死者の値打ち」
ここでは文芸作品の書評を行っている。当ブログでは小説の書評は行っていないため専門外であるが、小説を中心にあるいは小説も書評を行っている人にはぜひ読んでおいたほうがいいだろう。この章の前半では綿谷りさの「蹴りたい背中」から川上未映子の「乳と卵」などの近年の芥川賞・直木賞作品を取り上げている。そして後半では時折書評を交えながら文学に携わった人の追悼文を書いている。

第二章「話題作、さて、ホンモノかニセモノか」
こちらも文学作品であるが、ここではヒットした文芸作品の書評を行っている。これも当ブログでは専門外であるが伊坂幸太郎の「魔王」、リリー・フランキーの「東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン」というよく知られている作品をどのように切っていくのかが面白い。私自身ここしばらくは小説は読んだことがない(ただし古典作品はたまに読むが)。前身のブログ「蔵前トラック(Yahooブログ、既に閉鎖)」では何回か小説を取り扱ったきり、小説に対してどう書評していいのか見いだせなくなり、結局今のようになったのがいきさつとなって残っている。私は小説に対して書評するにあたっての「恐れ」をもっている。本当であればこの「恐れ」に立ち向かっていかなければいけないが、また嫌気がさして戻ってくるという変なサイクルにはまってしまいそうで怖い。

第三章「「下流社会」化する日本で」
ようやく自分が書評を行っている範囲に入ってきた。「一億総中流」が死語化してしまい、「下流時代」に入ってきたこの日本では、ある意味での変革が見えてきている。「メディアの右傾化」を危険視している左翼系論客がいるかと思えば、良くなったという保守系の論客もいる。私は今の考えであれば後者であるが、いまだに日本マスコミの愚かさというのは目を覆うような思いである。さてこの章では三浦展の「下流時代」のみならず、上杉隆の「官邸崩壊」、佐藤優の「国家の罠」などの作品が書評されている。本章の一番最初に「核武装提言」がインパクトが強かった。「核武装」に関する論議というのは本来であれば進めるべきである。「非核三原則」を再確認するためにでもあり、軍事的脅威から守るためにでもあり。しかし日本マスコミは何を履き違えているのかこの「非核三原則」は核を「持たず・作らず・持ち込ませず」であるのに、暗黙の了解で「議論せず」を入れているような気がする。これでは「非核四原則」にしてマスコミの連中はメディアに流すつもりなのだろうか。

第四章「仮想敵、中国・北朝鮮・アメリカを読む」
さて「核武装」が出てきたことによりいよいよ他国論に入っていく。前半は中国と北朝鮮(でもほとんどが中国)で、後半はアメリカに関してである。中国の軍拡は著しく、日本のそれをはるかに凌駕する。ちなみにミサイルのいくつかは台湾と日本に向けられているのは周知の事実であろう。軍事ばかりではなく中国も北朝鮮も反日教育が盛んである。さらにその反日感情がEUにも飛び火していることを考えると日本も手を打たなくてはいけないが一切手を打ってこない、というよりも怖気づいているようにしか思えない。そして後半はアメリカであるが、オバマ政権になってからまず言えるのは戦争に関してはブッシュほどではないが強硬派になるだろう。さらに民主党政権になると一応オバマ政権では親日派が多いように思えるが民主党は親中派が多いため日本にとっては日米関係の構築は難しくなるだろう。

第五章「「フラットな世界」を生き抜くために」
海外の本を取り上げている。自伝から、書評に値しないようなものまである。(11/30文献差し替え(官邸崩壊→ボブ・ディラン自伝))

本書に書かれている書評は、好評・酷評はっきりとしているが、論文に携わっている方にふさわしくオブラートに包んだりしている。私の書評はというと好評・酷評ははっきりとしているが荒削りで露骨と考えてしまう。本物の書評を読むの自分の書評と比べられるため勉強になる。