適当論

私は「適当」という言葉が前まで非常に許せない単語であったことをよく覚えている。簡単にいえば何が何でもきちんとやらなければ気が済まない性格である(今でもその名残は残っているかな)。ではこの「適当」というのをちょっと辞書で引いてみる(当然「goo辞書」より)。

(1)ある状態・目的・要求などにぴったり(合っていること。ふさわしいこと。また、そのさま。相当。
(2)その場を何とかつくろう程度であること。いい加減なこと。また、そのさま。

おそらくTVで見る高田純次を浮かべると(2)の意味になるように思える。しかし本書は…まさに(2)の意味そのままといってもいいが、所々(1)の意味がちりばめられている。まさに適当男としての「高田純次」もさることながら「等身大の高田純次」を垣間見ることができる。
まるで真面目に「無責任男」を演じていた今は亡き植木等を見ているかのように。

第1章「対談 高田純次×和田秀樹」
第2章「和田秀樹による「発言から見た高田純次」」
精神科医の和田秀樹氏との対談を第1章にて行い、そこから和田氏の分析が第2章にて展開される。ある意味漫才になっている。でも漫才の中にも何か真面目に物事を見抜く高田純次の姿がその二あるように思えた。対談の中では、和田秀樹氏の「シゾフレ・メランコテスト」というのがある。結構面白いのでぜひやってみてはどうだろうか。

第3章「高田純次になるために」
高田純次の「十戒」というのがある。一部だけだが面白いものをピックアップしてみた(pp.107〜109より)。

(2)自惚れも自身のうち
(5)バカになれ
(7)言い逃れの達人になれ
(9)無計画を押し通せ

(2)はちょっとおもしろい。なぜ面白いのかというと、成功者の本にはほぼ必ずと言ってもいいほど「自惚れるな」と書かれている。自惚れることによって自分の足元が救われ失敗に転じてしまうからである。だが逆に考えてみよう、成功する人には成功できるまでにいくつもの失敗や挫折がある。その中で自分自身の成功の術を身に付けたわけであり、そうするなということを肌身で感じているからでこそ成功できる。つまり、「自惚れろ」というのはまず失敗や挫折を恐れるなという言葉に結構似ている。

(5)は全くもって共感できる。利口になって何が利益になるのだろうか、自分自身にリスクを背負わずにスターダムに上り詰めようとしたがるのかとしか考えられない。だったら成功するためにバカであってもいい、いや「バカになれ」だ。バカ正直でもかまわない。

(9)はもしかしたら私のブログのことを言っているのではないのかと言いたげに思えてならない。私自身ブログを通して「先を見抜く力を身につける(先見力)」というのを一応目標にしているが、実ことを言うと本当の目標はない。

書評をやることそのものに目標を持っている。目標に向かって努力することに否定はしない。当然私も目標に向かって努力することは好きである。だが「成功者になるために」や「起業するために」というよりも自分自身「自由奔放に書評をする」というのが合っているかなと思った。だから私は書評を行うジャンルはほとんど問わない(小説は書評しないことにしているが)、ほとんど何でもござれというようなスタンスをとっている。書き方もこだわっていない。論文のようになることもあれば、ただ言葉を羅列した散文的なものになることさえある。自由にすることにより「どう読んでいるのか」というのを自分なりに表現している。あとは他人のために「つくらない」「迎合しない」「歩み寄らない」と言ったところだろう。

第4章「高田純次 独白」
ここでは等身大の「高田純次」を垣間見ることができる。表面上では(2)の意味での「適当」を装っているが、実際はほとんど(1)と言ったほうがいい。この意味での高田純次自身の自叙伝がそこにある。

本書は「等身大の高田純次」が書かれている。高田純次自身の人生、思考・思想と言ったものがありとあらゆるところまでちりばめられている。「適当」の在り方と同時に「高田純次型人生」を学んでみたい人にはうってつけの1冊であろう。