書評はまったくむずかしい

私は約1年半書評を行ってきた。これからもそうするつもりでいるが、最近では乱発という具合に書評ブログができ始めその中でも人気ブログとなっているものもいくつかある。

「書評」というのは簡単に言うとほんの感想や論評を行うことを言う。こう簡単にいえば誰でもできるのではと思う。当然書評ブロガーも多数いるためそういう風潮にあるようだが、本書は赤坂氏の書評とともに書評の難しさについても取り上げられている、そのことによってこのような表題になったのだろう。

この表題が最も色濃く出ているのは一番最初の部分である。

「書評は批評の場ではない」
「書評に疲れている」
「書評のモラルとは何か」

題目を見ただけでも考えさせられる。

まず「書評は批評の場」ではないであるが、本来は書評はいい時はいいと書いて、悪い時は悪いと書くべきなのだろうと私自身も思った。これはブログの立場、新聞書評の立場の違いかもしれないが新聞の場合は真っ向からの批判はまず作家が雑誌を通して反論を書き、批判合戦に持ち込ませるかその評者にあらぬ「レッテル」を貼らせる。今は分からないのだが新聞や雑誌のほうが幅広い年齢層で見ているからであろう。当然作家も書評が気になる。インターネットで検索して書評を気にすることもあるが大概は新聞や雑誌で書評されているところに目を向ける。それだけ信憑性のある人が書評を行っていることだろう。ただ考えてみると書評は批評の場でなかったとしたら本を称賛する場なのかという考えにも行き着く。批評を行うことによって自分なりの本の価値を見出すことができ、ほかの人から見てもこの本はどうなのかという価値観を共有することができ、逆に反論もできる。だが著者の体験から見てみると書評した本の作家による「政治的圧力」をもったとされている。それだけ陰湿な社会であるから書評が根付かないのではと勘繰ってしまう。

次に「書評は疲れている」だが、ちょっと気になる文章がある。

「露骨な物言いが選ばれることはむしろ稀れで、ほとんどは暗に示唆されるのだが、それはいわば、業界の仁義に反する、ということだ。本の大半は数千部足らずの零細な商品であり、その憂い気に対して、決定的なダメージを与えるような書評は控えるべきだ、という暗黙のルールが、にわかに浮上してくるのである。」(pp.15-16より)

「書評は諸刃の剣である」と言いたいのだろうか。素晴らしいと称賛できればそれが売り上げに直結し、逆に酷評となると普段数千部しか売り上げることのできない作品なのに、ほとんど売れなくなる。そのことから書評は控えるべきだという論調だろう。もう一つ、これは逆に面白いと思う所である。

「例えば、同じ業界やアカデミズムの内部に、書評者を求めることの弊害を避けるために、読むことに徹する書評の専門家を養成することも、一つの方法であるかもしれない。著者からは徹底して嫌われるが、一般読者からは信頼される。」(p.17)

新聞や雑誌の書評欄を見ればわかるのだが純粋な「書評家」が書いているわけではない。むしろ対象の本で専門的な知識を有する大学教授や会社の社長が書評を行っている。また「評論家」の仕事の一部にも「書評」というのがある。現在日本では純然たる「書評家」というのはほとんどいない。ではなぜ私が「面白い」と思ったのかというと、いないのであれば作ればいい、自分がそういった「書評家」になればいいという考えになれるからである。誰もそういう人がいなければ、私がなろうかという気概さえあふれるから「面白い」と思うのである。

「書評のモラルとは何か」
著作権などの法にまつわるモラルもあるが、ここでは「匿名」か「署名」かについて取り上げられている。私のブログも匿名でやっている(だけど、もうすでにセミナーなどの場で告知しているため私の実名を知っている人もいる)。実名(もしくは半実名)でやるべきではと言う声もあったがさすがに会社のことを考えてすることをやめた。しかし実名でやればネームバリューの差が歴然とする。半面責任が重くのしかかる。そのため書評をするにもより神経が必要になる。私自身書評を行う立場としては著者の意見とは逆で「匿名」でもいいと思っている。実名であれど、匿名であれど同じ意見であれば相手はどのように反応するか次第である。
あとがきまでは著者自身の書評であるが、著者が民俗学者であるだけに「民俗学」がほとんどであった。私も民俗学について書評をいくつか行っているが日本人として、もしくは国や地域としてのアイデンティティを学ぶにあたるのはなかなか楽しいことである。その中には自分たちの知らない「特性」が見え隠れするのだから。

最後のあとがきでは

「書評は魔物である」(p.336より)

と書評を一言で表している。これはまさにその通りである。書評は時には売れる要素になるが、逆に売れなくなる要素になったりもする。また書評によっては作者から称賛の声が上がったり、泥仕合の様相となるような罵倒合戦人までなってしまう諸刃の剣となる。

私は前身の「蔵前トラック(既に閉鎖)」から約1年半で延べ500冊ほど書評を出した。その中で批判されたり、賞賛されたり、自分で読み返してもひどい文章でつくったなと反省したりすることが多々ある。ただこれだけは言える。今まで一度たりとも「書評するんじゃなかった」と後悔したことはない。それだけ自信をもっていたのかというのではなく、この本と出合うことによって思ったことを自分なりに書きたかった。それがかなったという点で後悔したことがないと言いたいだけである。

確かに書評というのは著者自身も気にする。どういう観点で見られているのか、どう評価されるのか。一方で批判されたら売り言葉に書い言葉の如く、反論合戦となるかもしれない。
本書を読んで書評とはしばらく考えた。だが今のままでいいと思っている。そうしたほうが気が楽になるというのは嘘であるが、自分なりの言葉で書評をしたほうが自分らしく振る舞える。それで反論、指摘があればそれに甘んじて受けとめたり反論し返したりすることがある。私はそれでいいと思っている。

そしてこのブログと通して何をやりたいのか、それはまだ決まっていないが、本を出すことについてはまだ考えている。またこれから本が出るにあたってこう言ったものがあればいいなということが浮かんでいることだけ書こう。

・新聞や雑誌の書評と書評ブログの違いについて
・書評家はなぜ出てこないのか

という本があればとも考えている。あくまで思いつきなので。
これからのことはまだはっきりとは言えないのが現状である。