嫌老社会 老いを拒絶する時代

今や日本は「高齢化社会」から「高齢社会」、やがては「超高齢社会」とまで言われるようになる。医療技術や食生活の質が上がってくるにつれて、だんだんと長寿というのが当たり前になってきた。浮かしは「長寿の神」というのが崇められてもおかしくないときであったのだが、「長寿」が当たり前の今の時代を考えると「長寿の神」が崇められるというのはむしろ必要ないのではと思ってしまう。

本書では、

「いま考えるべきは「老い」の技術と思想だ。」(裏表紙より)

と書かれている。今思想を勉強するにあたって最も研究対象になりやすいのはこの「老い」とオタクたちの「萌え」と言った思想だろう。本書はこの前者である「老い」の思想についてスポットを当てている。

第1章「シニアデバイド」
簡単にいえば「高齢者」か「そうでない人」の区別を言っている。最近では「高齢者」の中でも75歳以上の「後期高齢者」という区別も起っている。これは「後期高齢者医療制度」によるものであるが、これについて反対意見は「高齢者を殺す気か」というようなヤジもある。だがある論客の一喝にはちょっとおもしろかった。

「ふざけるな!俺は畏れおおくも……後期高齢者だぞ!!」

これを武器に使うのであれば「後期高齢者」は差別用語ではないなと。
それはさておき、「高齢者」というだけで紅葉の門を閉ざされたり、引退の身にされたりなど収入の面で困窮になることがある。「高齢者」というだけで差別する人も中に入るから、差別用語になりかけているようでならない。

第2章「「老い」はどのように処遇されてきたか」
本書が「嫌老」ということなので「高齢者」になったことによる思想について書かれている。まずプラトンやその弟子のアリストテレスは、50歳を境に相対する意見を主張している。その内容は「老人政治」である。プラトンはいまの日本にはびこっている「老人政治」を提唱し、アリストテレスは批判している。日本の政治について今岐路に立たされているが、このソクラテスとアリストテレスの主張そのままの主張でいいと言っても構わないだろう。これからますます「超高齢社会」となっていくだろう日本の社会において、若者がけん引するというにも昨今の少子化により限界の時期は必ず来る。今はプラトンの思想に甘んじるしかないが、そこからプラトンのままでいいのかアリストテレスにシフトすべきかはこれからになってみないと分からない。
後半では東洋思想から、そいて日本における老いの事情について書かれている。西洋では老いに対する嘲笑などがある中で、中国などの儒教では老いは敬うべき存在であるという。日本でも「年の功」た「老獪」と言った言葉があるように中国と似ているものはあるが、徒然草にあるような「見苦しさ」も露呈している。今の暴走老人を嫌悪する事情はこう言ったところにあるのだろう。

第3章「「老い」への挑戦のプログラム」
アンチエイジング、地域社会、思想からの角度から「老い」への挑戦はある。前の2つについては私にとっても書きやすいが、本書では最後の「思想」が中心にあるのでここを中心に書こうと思う。年を取ることによって「性」などの興味や感性が薄れ、「死」への怖れが芽生える。ただ今となっては「ヒヒ爺」よろしくそういったことを興味を持ち続ける人もいる。そう考えると「老いる」というのはそういった感情がなくなり、意識的に「老化」したことを指すのではと考える。言うなれば年齢的・肉体的に老いたとしても、「自分はまだ若い」という気概にあふれればそういった「老い」に挑戦できるのかと考えられる。

「老い」は必ずやってくる。そのことに関して政治や地域と言ったマクロの解決方法、自分自身のミクロ的な解決方法を探っていく必要がある。「嫌老」から「年の功」となることもまた「高齢社会」への明るい兆しの一つにできるのを願うことだ。