日本語は死にかかっている

今、日本語がおかしくなっているという人が多い。しかし過去を紐解いて見てみるとどんな時代でも「日本語がおかしくなった」「日本語がおかしくなった」という声がやまない。しかし今のほうがその声が強い。それは一体何なのだろうか。本書の冒頭で「日本語は醜くなっている」とあるが本当なのだろうか。

序章「日本語は死にかかっている」
私もこれまでいくつかの本で「日本語」に関する本を読んできた。私なりの見解ではあるが、確かに昨今の日本語の使われ方は異常であり、「女ことば」が廃れているように感じる。しかし、日本語のみならず言葉というのは保守性を保ちながらも絶えず「進化」しているものである。決して固形物ではなく、「見えない生物」である以上進化するのは仕方のないことだが、その進化のベクトルを間違えてしまったことが今日の「日本語が死にかかっている」状態となったのだろう。それについて国文学者の林望氏が考察を行っている。

第一章「紋切り型という低俗」
これはテレビの放送の在り方とテレビで出る芸能人やアナウンサーらを批判している。この「紋切り型」というのは一体何なのか。
簡単にいえば「適当に並べただけのかたち」「その場しのぎのかたち」であり、プロ野球のニュースの時に「終わってみれば」というようなことをよく使うのをそう言っている。私はF1のシーズンが終わってから全くと言ってもいいほどTVを見なくなったが、たまに家電量販店でバラエティ番組を見ると酷いことこの上なしというような感情を覚える。それほど今のTVにより日本語を衰退化させたと言ってもいい。

第二章「保身はことばの品性を汚す」
最近はなりをひそめたが、昨年の半ばから「食品偽装問題」が表面化し、謝罪会見の場面を目にすることが多かった。特に形式的に深部下とお辞儀をする、そして原稿を棒読みをする、質問に答えるということ一辺倒ばかりであった。中にはどっかの高級料理店があたかも腹話術人形みたいな会見があったのだが、それはさておき、こう言う謝罪会見をやっているのは日本くらいであろう。先のシンドラー社製のエレベーター事件に関しては社長は謝らずに淡々と経緯を説明しているにすぎなかった。原稿も読んでいない。ただ考えられるのは海外と日本の常識・非常識がどこで芽生えたか、林氏が批判してる「保身」についてどういったルーツがあるのかというのを追求していく必要がある。しかし日本人の会見でも石原慎太郎東京都知事や小泉純一郎元首相の会見については林氏は称賛している。そう考えると今年の1月に誕生した橋本徹大阪府知事も石原慎太郎に似ている。ズバッと意見を言うのは弁護士時代から変わらないが、弁護士時代に比べて発言に責任を持っているという感じさえするのは私だけだろうか。

第三章「偉ぶる男は卑しい男」
言葉というのは使い方によっては怖い。時にはこれ以上ない特効薬となるが、ときには人をいとも簡単に傷つける鋭利な刃物になる。さらにこれと同じように男は偉そうになるとみんなから嫌われる。それはなぜか卑しいと思われるからである。そう言えば卑しい男と言ったら「むやみに自慢したがる男」もそうだろう。落語に関する本を読むとまさにその通りよろしく、噺家での会話は落語に関する話ばかりではなく当然雑談もある。しかしその雑談の中には自慢話は一切ない。ほとんどがバカ話、もしくは失敗談である。自慢話は噺家の中ではタブーとされている。というよりもそう言う風潮にあるようで、そういう話をしたらまず蚊帳の外に出されるのがオチだという。

第四章「冗舌は駄弁の始まり」
「話したいこと」と「訊きたいこと」は違うという。本書では「聞く」としているが、「聴く」や「訊く」、そして聞いているだけの「聞く」と混同してしまうためこの章では尋ねるほうの「訊く」に限定する。話すことが上手な人、つまりコミュニケーション能力を持っている人は「聞く力」が自然に備わっている。さらに「聞く力」が備わっている人は勉強家とされており、林氏自身のインタビューでも聴く力が備わっている人といない人では大違いであると実感なさっていた。

第五章「上品ぶるという下品」
「上品な人」は何だろうか。「上品な人」のそぶりをマネをする。そう言ったことをやっても結局は上品にはならない。むしろこの題目からして下品になる。では「上品でいること」とは何か、自分が知らないことに教えを乞うこと。飾らないこと、と言ったところだろうか。この章を見た限りではそう考える。

第六章「身ぶる口ぶりも言葉のうち」
身なりも言葉である。ベストセラーとなった「人は見た目が9割」とあるが中身はあまりよくなかったが本のタイトルを考えるとちょっとわかる気がする。言葉もその人柄と性格、そして身なりから出てくるのだろうかとも考えるように。日本人はことばを話すだけではなく落語では言葉で風景をつかむ。逆に歌舞伎や能では日本人ならではの「語らない」言葉がある。それは仕草である。そして声も言葉の一つであるという。言葉、仕草、声、これら全部合わせ持つことができればすごいことだが、いかんせん人間はどちらか欠ける。私だったら肝心の言葉を捨てようかと考えてしまう。

第七章「恥ずかしい、卑しい、いやらしいことば」
第八章「聞く力こそ話す力」
本書は「話す力」と言ったものであるが、ではこの「話す力」を鍛えるにはどうすればいいのか。「聞く力」を鍛えるにほかならないだろう。コミュニケーション能力自体もそれを鍛えるためには相手の意見や要望を聞き、それに答える(もしくは「応える」)ことが大切とされている。聞く力を身につけるのは簡単なことではない。しかし自分が意識すればおのずと身についてくると私は自分なりの体験から思った。