敗者から見た関ヶ原合戦

1600年、徳川家康と石田三成との合戦が行われ、徳川氏による江戸時代の礎となった関ヶ原合戦。ちなみに徳川氏を「東軍」、石田氏を「西軍」となっている。よく関ヶ原合戦は徳川氏の「東軍」ばかりがスポットにあたるが(歴史的背景を考えたら仕方のないことだろう)、本書はその逆の「西軍」石田三成側にスポットを当てている。歴史的に検証を行ったうえで書かれている。ただしあくまで「石田三成側」、いわゆる「西軍」のことを検証したものであるので石田三成を検証するものではないことだけは本書でも断ってある。

序章「敗軍の将・石田三成の通説的解釈は間違い」
1600年、関ヶ原合戦に敗れた石田三成は刑場の露と消えた。その後終章でも述べるように家康の陰謀によって石田三成は大悪人、もしくは名ばかりの将軍に貶められた。しかし史料は嘘をつかなかった。石田三成に関する史料が発見される旅にその汚名という名のメッキがどんどん剥がれていくように、ありのままの石田三成が見えてくるようになった。
石田三成は知将として有名であり、とてつもない戦略化であった。事実関ヶ原合戦は、最後の最後まで分からないほどの激戦であり、家康率いる東軍もあと一歩で降伏するところであったという。ターニングポイントとなったのは「忍城水攻め」での実戦能力のなさが露呈したときであった。

第一章「豊臣秀吉の不安と家康の野望」
秀吉は家康に政略結婚させ三河から当時はそれほど発展していなかった江戸に移させた。それによって秀吉は天下統一を果たし、太閤となってからはご存知の方も多かった。だが順風満帆だった秀吉が目の上のたんこぶの存在、もとい頭が上がらなかったのが家康である。もちろん家康にとっても秀吉以外に邪魔ものが何人かいた。前述の石田三成のほかにも7年前に大河ドラマで人気を博した前田利家、会津の大名・上杉景勝という名を連ねている。

第二章「三成挙兵と全国諸大名の動向」
秀吉の死後、家康はさっそく伏見に移り、その後会津へ上杉氏討伐に向かった。だが石田氏の奇襲によりその作戦を中止せざるを得なくなりその後関ヶ原合戦となった。余談であるが東軍の総帥は徳川家康であるが、西軍は石田三成と思いがちだがあくまで参謀として中心的に活躍したに過ぎない。では西軍の総帥は誰かというと毛利輝元である。ほかにも西軍で取り巻く人物が多数登場するのがこの章である。

第三章「東軍動く、戦いの焦点は岐阜・大垣城攻防へ」
さて西軍に押されっぱなしであった東軍が反撃にでる。ついにがっぷり四つの戦いとなったがキーポイントとなる戦いが章のタイトルに書かれているとおり「岐阜・大垣城の攻防」である。岐阜城は西軍が救援に失敗したことによって陥落し、徳川の手に渡った。そのことにより形勢は大きく動き出す。

第四章「西軍布陣をめぐる多くの謎を検証する」
関ヶ原合戦については詳しい文献はいくつかあるが西軍についての謎について迫っているところはあまり見当たらない。毛利氏や石田氏の戦略についての謎を事細かに分析している。

第五章「小早川秀秋の動静と三成の「一大作戦」」
章のタイトルの小早川秀秋とは一体誰なのかという所から入っていかなければいけない。小早川秀秋は生死ともに謎の多い人物である。1582年に木下家定の子として生まれ、若くして備前国岡山藩主となり、関ヶ原合戦では西軍についた。しかしその途中で裏切り。江戸時代に入る少し前に21歳という若さで謎の死を遂げた。今だに死因については諸説あり、有力なものがない。本章では徳川に接近した時のことについて書かれている。そして石田三成の「一大作戦」についても言及している。

第六章「息を呑む決戦・関ヶ原合戦」
ここでは全体的な関ヶ原合戦について迫っている。本書が本書なだけに西軍からの視点で見たダイジェストと言ってもいいだろう。

終章「歴史に埋もれた知将・三成の実像」
おそらく関ヶ原合戦に関する文献の中で石田三成などの西軍にかかわる文献はそれほど多くない。しかしありのままの石田三成や西軍について迫るような文献がこれからも出てきてほしいと私は思う。まだまだこういった歴史には謎が多い。この謎を諸説や発掘を交えて展開することこそ歴史科の使命であろう。

本書は敗者の石田三成を中心とした西軍にスポットを当てた作品である。関ヶ原合戦というと東軍ばかり目について西軍は無様に負けたのではないかという観念があるのかもしれないが、実際に読んでみたらそうではなかった。西軍があとひと押し有利に立てば、徳川氏が跋扈する江戸時代が来なかったし、現在の状況も変わっていただろう。