悲しき横綱の生涯―大碇紋太郎伝

横綱朝青龍が5場所ぶり23回目の幕内優勝を飾った今年の初場所。先頃までの横綱の品格や八百長問題が飛び交ったのを一気に吹き飛ばした感じであった。あれだけ批判していた漫画家のやくみつる氏も今回ばかりはさすがに称賛した(ただし、立ち振る舞いは非難したが)。しかしそのような状況でも角界の課題は山積の状態が続いていることは事実である。

さて本書の話に入るが、本書はいまから100年以上前の角界の様子、とりわけその時代に大活躍した大碇紋太郎の生涯についてスポットをあてた一冊である。大碇紋太郎の生涯についてはウィキペディアにも掲載されているが、いつ死んだのかについてはまだ分かっていない状態である。なぜなのかについては後ほど書くことにして、本書のタイトルで「横綱」と書かれているが、大碇は相撲界での最高位は「大関」であり、「横綱」にはなっていない。ちなみに大相撲で活躍していた時の「横綱」は「西ノ海」や「小錦(今のタレントで活躍しているKONISHIKIとは別)」である。

大碇は名実ともに横綱になれる資質を持っていた。しかしなぜなれなかったのかというのは当時、この相撲界を牛耳っていた高砂親方が西方を冷遇したことにあった(高砂部屋らは「東方」と言われ、大碇らは「西方」であった)。また、高砂の独裁による煽りで勝ち越したにもかかわらず関脇(しかも帳出)に降格されたりと言ったぞんざいな扱いに大碇ら西方は怒りが爆発した。その次の場所のほとんどをボイコットしたりと言った抗議活動を行い揺さぶりをかけたのだが、すでに高砂の私物化となってしまった相撲界ではびくともしなかった。こう考えると高砂親方は代々問題を起こしているのかと勘繰ることがあるのだが、たまたまなのかそれとも必然なのかというのは私にはわからない。

憤慨し一時は廃業寸前となったのだが京都相撲に移籍して「京都横綱」となった。前述の「横綱」の意味はここからきている。

しかし京都相撲は東京や大阪と比べてずっと小じんまりとしており、大碇を興奮させるほどの強い力士が皆無であった。当然大碇はやる気を失う。今度は海外巡業のためイギリスへ向かった。その巡業は大成功を収めたがそれによる収入はごくわずかとなり、苦しんだ末プロレスラーとして活躍した。このところを読むと敗戦間もない時期、意気消沈だった日本人を照らした太陽として力道山が挙げられる。力道山はプロレスにおいて「空手チョップ」でもって外国人レスラーを次々と倒していった。状況は違えどそれに通ずるところはあるのかもしれない。英国で活躍してからは海外を転々としたのだが大正2年に消息が途絶える。生年からもうすでに亡くなったのは明白ではあるがどこでなくなったのかについても明らかにされておらず、本書の前半においてマルクス経済学者の河上肇が自叙伝で老人姿の大碇を刑務所であったという記述があったが、詳細は明らかになっていない。

このことから大碇の生涯は悲劇と気概に満ちていたのだが、角界の歴史の中の淵にいることが何とも悲しいことか。
本書は大碇の生涯とともに当時の相撲界のならわしも知ることができる(「祝儀の羽織」や「預相撲」といったものである)。