島津久光=幕末政治の焦点

1853年にペリーが浦賀沖にやってきてそこから明治維新までの約15年の間、「幕末」と呼ばれ様々な事柄・事件、人物が乱発した時期であった。閉廷、もしくは安定した時期に偉人と呼ばれる人物が生まれることはごくまれのことであるが、幕末などの時代の変わり目や戦争における混沌の時代は歴史に残る有名な人物がよく出てくる。混沌の時代だからでこその産物であろう。世界恐慌と言われる今、経済界ではまさに混とんの時代であるが、それが単なる不況に終わるのか、アメリカや中国が渦中となった「第三次世界大戦」の序曲となるのかはまだ分からない状況であるが、どちらにしろ混沌の時代であるのでこの中で志士が生まれることは間違いないだろう。

本書の話に入る。本書は幕末に活躍した人物の中から島津久光にスポットを当てている。幕末というと坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)という人物が容易に想像できるが本書はこう言った人物が出てくるのはあまり出てこない。西郷と同郷であれど幕末の混沌の時代を先立って攘夷運動の先だった男こそ島津久光である。

第一章「久光体制の確立と上京戦略」
久光の国政観を憂い、これから久光を上京するための体制を確立させた、それを「久光四天王」と言われるが、そのうちの一人として「小松帯刀」がいた。以下の本がある

第二章「錯綜するイデオロギー」
幕末のころに「尊王攘夷」という志士が誕生したのだが、その中でも意見が割れていた。簡単にいえば「内ゲバ」状態にあったという。天皇に渡って「親政」か「親裁」と分かれていた。同じように思えるが天皇の意思だけで動けるのかどうかという所で相違があった(すなわち「天皇勅令」が出せるかどうか)。

第三章「率兵上京と中央政局」
さてここからは実際にどう動いたのかという所である。ちなみに「上京」は今のように東京に行くのではなく、「京の都」、京都である。当時天皇家がいる朝廷は京都にいた。大政奉還の後に天皇家は旧江戸城を皇居とした。

第四章「寺田屋事件の真相」
寺田屋事件」について本書を引用して解説する。

「(1862年)4月23日、久光を擁して倒幕挙兵を西国志士らを画策する有馬新七らの薩摩藩尊王志士を、久光によって派遣された鎮撫士が寺田屋において鎮圧した事件で、これによって朝廷における久光の声望が大いに高まった」(p.94より)

島津久光を語るにあたりこの「寺田屋事件」は切っても切れないのがよくわかる。しかし本書はこの寺田屋事件の真相についてまだまだ本質をついていないと考えているという。史料自体はまだまだ解明されていないところがあるのだろうか、あるいは解釈が不十分であったのだろうか、それはさておき本章ではこの「寺田屋事件」を著者独自の解釈を解説している。

第五章「久光VS. 京都所司代――朝廷での政争」
朝廷における声望の高まった久光であるが、それと同時に京都所司代との対立を意味していた。そう言った中で朝廷は一体どんな立場であったのか。

第六章「朔平門外の変――薩摩藩最大の危機」
朔平門外の変についてちょっと解説する。

「江戸時代末期江戸時代末期の1863年、尊王攘夷を唱える過激派公卿として知られた姉小路公知が、京都御所朔平門外の猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺された事件である」(wikipediaより一部改変)

次章の八月十八日政変のきっかけともなるが、久光はどのようにかかわっていたのかというと、実は同年の生麦事件の処理により地元・鹿児島から離れられなかった。

第七章「八月十八日政変――首謀者は誰か?」
同年8月18日に一橋慶喜(後の徳川慶喜)や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が、長州藩と三条実美ら過激派公家などの尊王攘夷派を中央政局から追放したクーデターである(p.170より)。
この時に処刑された人物は上記の三条実美ら三人であるが本章はその首謀者は誰かについて迫っている。

第八章「元治・慶応期の久光・薩摩藩」
ここはそれほど取り上げるものではない。薩長同盟を結び幕末に向けて動き出した。その時代の中での島津久光について迫っている。ちなみに島津久光は明治20年に亡くなった。

島津久光に関しての学術的な考察をしている一冊ではあるが、幕末というと西郷隆盛などを挙げる人が多いが、こう言った人物を取り上げてみてみるとまた幕末のことが見えてくる。有名なものもあるが、マイナーなところにも手を広げてみてはどうだろうか。