評伝 川島芳子―男装のエトランゼ

日中戦争時代、この二国間の狭間で生き抜いた二人の女性がいた。一人が山口淑子、「李香蘭」と呼ばれた女性である。もう一人は本書で取り上げる川島芳子(本名:愛新覚羅 顕シ ※シは王ヘンに子)、「男装の麗人」として名をはせた女性である。

本書はこの川島芳子にスポットを当てているが、今から25年前にジャーナリストの上坂冬子が上梓した「男装の麗人・川島芳子伝」を例に挙げながら、この本で取り上げられなかったところから川島芳子の一生を辿るという手法をとっている。上記の本は読んだことはないのだが、本書はこの本を結構意識したのではとも思う。とはいえ、川島芳子の生涯を見てみたい私にとってはこう言ったものから始まったほうがいいのかもしれない。

Ⅰ.「誕生から幼少時代」
川島芳子(以下、芳子)が生まれたのは1907年であるが本章では1900年、義和団事件の所から始まっている。ちなみに肅親王と川島家とのかかわりが書かれている。芳子の父親は川島浪速、肅親王のフィクサー役として活躍した人である。

Ⅱ.「復辟と養父」
芳子の養父は第十代肅親王の肅忠親王(善耆)である。ちなみに肅忠親王は5人の妻を持ち、子女は全部で38人も作ったとされている。肅忠親王は最後の肅親王であり、その時には辛亥革命などの多くの波乱があった。袁世凱による独裁に反対し、日本からも資金援助を受け、宣統帝(愛新覚羅溥儀)の退位から戻らせる(いわゆる「復辟」)ために尽力したことでも知られている。それをかなえるために38人の子女に日本に留学させるなどの便宜を図ったとしても知られている。芳子はその一人であった。
芳子は恋愛に関しても騒動を起こした人物とされており、田中隆吉との交際から「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ、さらに右翼の笹川良一と交際したという噂まである。本章では恋愛騒動により、ピストル自殺未遂から断髪したところまで言及している。

Ⅲ.「マス・メディアの中の川島芳子」
さてここでは舞台や歌手活動としての芳子と「男装の麗人」のことについて取り上げられている。wikipediaでも取り上げられているが、「川島芳子=男装の麗人」という印象が非常に強い。特に戦前に取り上げられた作品に「婦人公論」で連載された小説に「男装の麗人」というのがあった。本章ではその前に「男装の王女」という2つを紹介しているが、今の状況で考えると「男装の麗人」と言ったほうが差支えないだろう。しかしこの男装について当時から賛否両論の声が相次ぎ、「エロ・グロの権化」という批判もあった。

Ⅳ.「詩歌と裁判」
芳子は帰化手続きを行っていなかったために「漢奸裁判」にかけられ、漢奸と認められ銃殺刑となった。ちなみにこの「漢奸」というのは中国語で「売国奴」という蔑称である。
日中戦争を辛辣に批判した芳子は軍部からも監視対象になるがひるまずに持論を主張し続けた。当然漢奸裁判でも同じであった。著者はそこに「武士道精神」があるのではないかという見解をもっている。

川島芳子は私自身あまり知らなかったので勉強になった、それと同時に日中戦争をはじめ、第二次世界大戦の視点がまた広がったような気がした。女性の観点から歴史を探ってみるとなると夫人運動を起こした平塚らいてうなどが挙げられるが、こう言った激動の中で生きた女性を挙げるとなると李香蘭、川島芳子は外せない。本書を読んでそう思えた。