ポスト・プライバシー

個人情報保護法が施行されて今年で5年目となる。ただこれが法制化される前も「プライバシー」というもので個人情報保護というのはあったのは事実である。上記が法制化されたのはP2Pソフトをはじめ、様々な手段による情報漏洩というのが起こっていることが背景の一つと言える。しかし何でもかんでも「個人情報保護」になると、昔からあった「地域性」というのが疎遠になってしまう、壊されてしまうのではないかという危惧が私にはある。

本書はちょっと違う観点からプライバシーの在り方について疑問を抱いている。プライバシーの変化を考察しながら、新しい「プライバシー」というのは何なのかについても迫っている。

第1章「変容するプライバシー」
「プライバシー」の概念とは一体何なのか。ある辞書ではこう書かれている。

「個人の私生活に関する事柄(私事)やそれが他から隠されており干渉されない状態を要求する権利」

日本国憲法では第13条(個人の尊重)によって保障されていると解釈できるものである。しかし個人情報保護とプライバシー、同じ意味のようで実はその範囲というのは明確に違っている。プライバシーの定義は結構広いが、個人情報に関しては生年月日や氏名など個人を識別できるものに限っている。しかし個人情報とプライバシーの混同は当たり前のようにあることに未だに疑問に思うのは私だけ得あろうか。

第2章「データ・ダブルとファンタジー・ダブル――情報生産の問題としてのプライバシー」
プライバシーと言っても別に誰にも知られたくないからということでそれを使うのは「権利の濫用」となる。
一方でプライバシーをめぐって裁判になったものもある。有名なものでは三島由紀夫の「「宴のあと」裁判」や柳美里の「「石に泳ぐ魚」事件」というのがある。フィクション作品ではあるが、その人物の経歴がある政治家であったり、人物と限りなくそっくりであり、裁判では「侵害」と認められた。こういった者は本章では「ファンタジー・ダブル」としている。
一方で、個人情報保護法に抵触する者というのは「データ・ダブル」という。
従来のプライバシーは前者であったが、個人情報保護法が施行されて「データ・ダブル」が主流になりつつあるというが、まだまだ両輪のどちらかによって成り立つということも考えられる。

第3章「<私>は誰がつくるものなのか――生産の主体の問題」
プライバシーと個人情報保護における<私>の変化について書かれている。インターネットの普及により、「私」の情報を過剰に保護しようとする人もいれば、公に流そうとする「私」も存在する。そうなってくると個人情報保護やプライバシーの在り方そのものが問われてくる。

第4章「内面からデータへ――生産の拠点と問題」
プライバシーが第2章のように変化した時に人間の心理というのはどのように変わっていくのだろうかという所を描いたところである。

第5章「脱親密の社会――自己を支えるものの変遷」
プライバシーの保護、個人情報保護によって親密さというのが段々疎遠になってしまうのではないのかというのが私の中にはある。確かにインターネットが当たり前となっている時代だからでこそセキュリティや個人情報保護というのは厳重に扱わなければいけないのはあるが、それは企業によるものであって、個人は法律の範囲内で保護すればいいものの、それを敏感に思い、過剰に保護するということに陥る。それは何をもたらすのかというと「地域の弱体化」や「疎遠化」をもたらす。

第6章「身体とプライバシーの変容――身体がもつ社会的意味と変化」
身体とプライバシーというのはあまり接点がないように私は思ってしまう。しかし外見や容姿と言ったら話は別である。どういった印象を持つべきかというのが自分自身開示できない。もしくは自分に自信を持っているからでこそ思いっきり開示するという2通りに分かれる(自信がなくても開示する人もいるが)。

第7章「個人と聖性のプライバシー」
プライバシーは保護する範囲が広く曖昧である。個人情報保護法のように自分がわかるもののみをプライバシーとする人もいれば、不必要なところまでプライバシーに仕立て上げる人もいる。清壱岐は人それぞれであれど、普遍的、一般論的な「プライバシー」の範囲はこれから論ずるべきところだろう。

第8章「個人記号の計量学」
「個人」という言葉にも重さはそれぞれ違う。これはプライバシーのことについてまとめたものであるが、結局「個人」の意識の変化によるものではないのか、個人の計りによってプライバシーの範囲も違ってくるのではないのだろうか。

「プライバシー」という言葉は被害者が保護意識を述べるための言葉のように思えるが、反対に悪くいうと「侵害」する立場から見ての「プライバシー」というのは何なのかというのも問い詰めなければならない。

「プライバシー」の範囲が人それぞれ違うので、普遍的な「聖域」はつくれない。しかし今後、それが議論の標的になるだろう。そうなれば本書はその一助を担うべきものとして大いに役立つであろう。