権力に迎合する学者たち―「反骨的学問」のススメ

学者という職業は自らの学業を論文という形で学会に発表したリ、大学で教鞭をとったりすることが一般的だが、ほかにも論壇でも活躍することや政府の諮問機関の委員に選ばれ、そこで自らの意見を述べたりする人もいる。とはいえ大学教授の中にもそう言った権力志向の人が強く、漫画家の小林よしのりが特定の評論家たちのことを「バッジのない国会議員」と揶揄していたが(新ゴーマニズム宣言11「テロリアンナイト」より)、学者の中にもまさにその通りと言われる人がいるという。本書は前述のような「権力に迎合した」学者を批判しつつ、20年以上研究に携わってきた目線から「学問」や「学者」のあり方について定義している。

序章「格差社会論・護憲平和論の盲点」
著者の専攻は住居に関すること、「すまい学」の第一人者である。格差社会論や護憲論よりもまず住宅に関する提唱からなされるべきだと主張している。特に憲法第25条の「生存権」に関しては居住福祉と共に担保されるべきだとしている。しかし現在は朝日訴訟の例のように名ばかりの条文である「プログラム規定説」となってしまっている現実もある。

第1章「権力に迎合する学者たち――権力追随の諸相」
権力に迎合する学者の実態は80年代の中曽根内閣の時、加速的に進行したとされている。当時はというと国鉄(現:JR)、電電公社(現:NTT)などが民営化した時期でもある。もっと言うと公共施設や再開発などが行われた時期でもある。こうした事態に対して反論の声を上げた学者は少なく、むしろ行政機関に好意的なコメントを寄せている学者が多数であったと指摘している。私見であるが現在では半々と言ったところであるが、「土建国家」と揶揄され出した時であるからでこそ著者はこういった者たちに迎合する学者を批判したかったのだろう。

第2章「知識人の震災責任を問う――続・権力に迎合する学者たち」
1995年1月17日神戸・淡路島などを中心とした大地震、「阪神・淡路大震災」が起こった。死者は約7000人にも上るという大惨事であった。これに関しては当時神戸県知事であった貝原俊民氏への批判もあるのだが実際は兵庫県警がまとめていたが、報告を怠ったことが原因とされている(理由については明らかにされていないが、その報告者が県政に批判的で、その恨みからかという説もある)。
本章では市政・県政のトップと識者(特に地震学者)を批判しているが、後者の批判がどのようなケースがあるのかという例示がされていなかったのが残念である。

第3章「学問が「カネ」に支配される時――市場原理導入の中の大学」
私は2004年に大学入学し、昨年卒業したのだが入学した当時の掲示板では「国立大学法人化反対」のポスターが貼られていたことを今もはっきりと覚えている(しかもその年は国立大学法人元年にあたる)。これまでは国によって学業に関係なく研究資金をもらうことができたのだが、この時から業績(研究など)に応じて資金が分配されるという仕組みになってしまった。自助努力をしなければいけないという考えではいいことかもしれないが学部統合、もしくは大学の統廃合という危険性もはらんでいることは間違いない。これが研究に負担がかかるだけであればいいのだが、受験生獲得や産学連携に躍起になってしまったため、学問を「カネ」で売られているという見方もできる。本章はそう言った見方をしている。

第4章「なぜ学者は迎合するのか?――知の閉塞からいかに脱するか」
大学の研究機関においても封建的な社会というのは成り立っている。教授というのがピラミッドの上にきて、准教授、助教と言った順である。そう言った権力ピラミッドが創造的な研究を壊し、権力に迎合し、「知の閉塞」を起こしているという。

第5章「研究の方法についてのノート――自らの創造のために」
ここでは批判よりも研究のあり方を述べた所である。本章の最後には江崎玲於奈氏と著者の五カ条について定義している。一部を紹介してみる

・今までのゆきがかりにとらわれてはいけない。しがらみ、という呪縛を解かない限り思い切った創造性の発揮は望めない。(p.145より)

・他人の言いなりにならず、自分の主張を貫くためには、闘うことを避けてはいけない。(p.145より)

・「感動力」を養う(p.147より)

・他人の悪口(批判と悪口は違う)ばかり言っている人は敬遠せよ。(p.147より)

他にもいろいろある。私は様々な本の書評を行っているが「書評スタンス五箇条」というのもやって見ようかなと頭に浮かぶ(できたら公表しようと思っている)。

第6章「学問復権への道――対談・西山卯三×早川和男」
学者の現状、本当の「学問」のあり方などが議題である。
学者に限らず様々なかたちで「迎合」というのが蔓延しているように思える。日本は集団社会であり、その中で「否定」や「反駁」と言ったことが通じない、もしくは駆逐される風潮になっており、外国から見たらそれが非難の対象になったり不思議がったりする。
その中で「反骨」という言葉が使われていたため本書を手に取った。

私の中にもいろいろな形での「反骨」というのがあるためそれに共感したというほかない。ただ「反骨」のベクトルが私と著者とで少し違っていたようだ。