広告と生きる―私の履歴書

本書は2008年8月1日〜31日まで日本経済新聞において連載した「私の履歴書」を加筆したものである。

電通を一筋55年勤めあげ、広告とともに生きている著者による回顧録である。55年もの間広告をどのようにみてきたのだろうか、電通マンとしてどのように生きたのだろうかなどの生涯についてたっぷりと書かれている。

第1章「喧嘩と野球の浪人生活」
著者は1929年に京城府(現在のソウル市)で生まれ、16年間そこで育った。当時は成績も芳しくなく、大雑把な人間であった。
しかし学校で落第点を取ったことを契機に猛勉強を重ねた。
その後徴兵のため日本に赴き、終戦。終戦後は高校に進んだが、大学受験で失敗した。それからというもの浪人生活であったのだが、これがのちに電通マンとして生きていく糧になろうとは思いもしなかった。

第2章「街に教わった人生」
一浪してようやく大学に進学をするも、赤貧により友人の下宿に転がり込む毎日であった。野球とアルバイト、時々恋というような毎日のように見えた。
そして就職活動の時、著者の師匠であり、「広告の鬼」と呼ばれた吉田秀雄に出会った。

第3章「吉田秀雄に学ぶ」
今は右肩下がりであるとはいえ広告業界は花形産業である。
しかし著者が入社した当時の広告業界は蔑視の的であった。しかし、電通が巨大産業となるための萌芽であった時期であった一方、ライバル会社の競争も激化しており戦々恐々としていた。

第4章「三十三歳の「鬼軍曹」」
「鬼軍曹」と言うと野球界では須藤豊がよく似合う。
余談はここまでにしておいて、著者は入社わずか10年で部長職にまで上り詰めた。そのスピード昇進もあってかその時名付けられたあだ名が「鬼軍曹」であった。「鬼軍曹」のごとく部下に厳しいという印象が当初あったのだが、部下との激しいやり取りは本書では見受けられなかった。その分行動力は「鬼軍曹」ならではと言うべきであった。広告のためにテレビ業界、芸能プロダクションを渡り歩いただけではなく、ローマ法王に謁見をし、さらに直訴をするということまでやったほどである。
行動力の凄さに只々驚かされるばかりのところであった。同時に仕事をするにあたっても人生という道を行くにしても「行動力」が大事というのがよくわかるところであった。

第5章「「根っこ」をつかむ仕事術」
ここではスポンサー制度や日韓ワールドカップ、演劇、映画にまつわるビジネスを紹介している。

第6章「一流の会社を目指して」
著者が昇進をするときはいつも逆境の中であったと自壊しており、社長就任の時も逆風があったという。それでも逆風に立ち向かい、会社を大きくさせ、もはや広告はこのカイシャ無くして語れないというほどにまで成長を遂げさせたという功績から「電通の天皇」と呼ばれるようになったのだろう。

「電通」とともに歩んで55年以上たつ著者の半生を描いた作品であるが、会社人として生きていったというよりも自らの「行動」によってもたらされたものというものが大きいように思えた。
自分がこう思ったのだからこう「行動」するというようなポジティブの印象が強かったようだが、本書では書ききれなかった葛藤というのもあったのかもしれない。それに戦い、打ち克てたからでこそ、人から称賛されるような人生を歩んでいったに違いない。