教養脳を磨く!

教養というのは、知識を自分の思考でもって落とし込んで、新しい考え方を身につけるというような手法である。本書はイギリスにおいて「知のカルチャーショック」というのを受けた2人が新しい「教養」について縦横無尽に対談を行っている。

序章「教養という可能無限」
脳科学者の茂木氏がイギリスで体験したこと、そして「教養」に関する可能性について書かれたところである。そして対談の相手である林氏への印象と対談での感触についても1ページ程度であるが感想を記している。

第1章「ケンブリッジ式「教養脳」の磨き方」
林氏はケンブリッジ大学に1984年〜91年までイギリスに滞在しており、その中でケンブリッジ大学にも留学をした経験がある。目的は日本文学史に関する蔵書目録を作るためであったという。
目録を作るためであれば冊数によるがそれほど時間はかからないだろうと考えてしまうのだが、その冊数が1万冊にも上るのだから驚きである。
しかし、その編纂作業のなかで書く力、教養、そして何よりもスペシャリストの強さというのを肌で感じたそうだ。
最後には古典からみたメディア論批判についても取り上げられているが、近視眼的なメディアの捉え方について批判をしている。

第2章「古典が育てる「教養脳」」
第2・3章は「古典」の読み方と「古典」の特性というものを対談している。
古典文学と言うと、古い言い回しが多いためとっつきにくく、古典にあまり触れていない人にとっては読むこと自体が苦痛でしかないものになってしまう。
しかし、古典はその時代背景から心情など、多彩な表現を用いて綴っており、日本語をみるとしても格好の材料となる。
本章ではどのような古典を紹介しているのかというと、「荻窪物語」を題材とした「古今黄金譚」というのを取り上げられている。
「お食事中の皆様、大変失礼をしました」
というような内容である。
もう一つの古典としては「音楽」である。こちらは茂木氏が音楽と脳に関していくつか著書があることが起因しているのだろうか。

第3章「「教養脳」的に古典を読んでみる」
古典の読み方というのは様々である。本章では「教養脳的に」と言っているがこれは一体どういう方法なのだろうか。国語の授業では現代語訳に翻訳をするということ、そして文章から心情を記述することばかり目に行きがちであるが、本当に古典を愉しむとするならば、古文にある文章そのものから感動を得る、論理的というよりも文章を音楽としてとらえることによって文章そのものの楽しみが得られるのではないかというのが本書の対談において紹介している。

第4章「日本の「教養脳」を磨こう」
教養脳を磨くためにどうするのか、そして教養の脳の理想形はどうなのかということについて対談している。
簡単な知恵では太刀打ちできず、知に付加価値をつけるということというのが主としている。
そして面白かったのが理想として「アカデミックな変人」と呼んでいる。変人と言うのもいろいろあるが、不謹慎なものなのか、いびつな形の物を考察できるような人材であるべきなのかというのはどちらでもないのか、片方なのか、あるいは両者なのかというのは定かではない。

教養というのは何かというよりも今日本に蔓延っている常識をイギリスから学んだ教養でもって打ち破り、新たな形の強要とは何かというのを本書で紹介している。
私も教養本についていくつか読んだことがあるが、これほどまでに縦横無尽な対談と、不謹慎なところまで言及をしている本はない。教養という言葉の新たな可能性を見出した一冊と言えよう。

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