心はなぜ不自由なのか

人は「自分の意志」で行動をしている。しかしそれは「自分の心で」なのかというと実は本能であったりすることがある。もしくは買いたいものがあるのだけれども、それは自分の羞恥心に触れる時にはやっぱりやめたということになる。心は自分の意思に反してブレーキをかけてくる。本書はその自由に聞けるようで実は不自由な心を講義形式で解明している。

第一回講義「取調室のなかで「私」はどこまで自由か」
いきなり重たい話題である。
最近では「録音・録画による取調室の可視化」という声があり、ようやく録音のみ可能になったのだが、まだ不備が多いというのも現状である一方で、虚偽の発言が横行するのではという考えを持つ人もいる。取り調べの可視化というのはこれからも課題になっていくのだが、本章ででは取調室における「私」の定義について触れている。
取調室と言うと映画やドラマでしか知らないのでイメージだけであるのだが、そこには人権や人格と言ったものはなく、警官からの圧迫尋問に淡々と受ける。その圧迫から逃れるために自分はやっていないのにもかかわらず、自白をする、罪を認めてしまう、濡れ衣を喜んで背負ってしまうという。本心は自分はやっていないのだが、拘束という不自由な空間のなかで、自分の意志とは裏腹に「自由」を求めてしまうため自白する。
そしてもう一つには自白の後、犯行の動機や犯行に至った経緯、どのようにして犯行を行ったのか、無実であるのにもかかわらず淡々の語ることがあるという。これも虚偽であるのだが、なぜ「分かりません」や「言えません」と言えず嘘のストーリーを淡々といえるのかというのは先の自白と同じ原理にあるという。
自分の心と行動というのは一緒のように見えて、実は分離しているのだろうか。

第二回講義「この世の中で「私」はどこまで自由か――関係の網の目を生きる「私」」
ここでは「羞恥心」についてであるが、羞恥心と言うよりも「コンプレックス」と言った方が適当であろう。
最近ではその傾向が顕著のように思うのだが、他人からの評価をいちいち気にしてしまう。仕事に対する評価のみならず、自らの勉強態度や書評に至るまで他人からの評価を気にしてしまう性格である。最近は気にしなくなったが、それでもまだ気になってしまう。

第三回講義「「私」はどこまで自由か――さまざまな「壁」を生きる「私」」
私にとって「自由」とは何なのか、「私」の自由は何なのか。ここでは自由における「視点」について取り上げられている。この講義の中心となったのは「三つの視点」であるがこれは、
「身体の視点」
「他者(相手)の視点」
「神の視点」
というのがあるという。「身体の視点」は主観的、もしくは肉体的なものなのだろう、「他者の視点」はどちらかというと客観的、「神の視点」と言うと…あまりにも次元が違いすぎてどのようなものかwからないが、精神的なものがあるのだろうか。本書に書かれているのは「身体の視点」を地上とするならば、「神の視点」は天上にあるということが書かれていると、もはや心理学や精神学というより、哲学・神学という所に入ってくる。

「精神」と「肉体」というのは相反するものである。それゆえに人間の心とは裏腹とは別の行動を起こすこともあり得る。本書はそのことを教えてくれる。

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